「楓……」
さとみは、楓と辰が消えた壁を見つめてつぶやく。
「辰の野郎、あっしらに知らん顔でやしたね……」豆蔵が言う。知らずに浮かんだ額の汗を拭っている。「でも、とんでもねぇ迫力で……」
「さゆりが楓を連れて来いと言ったと……」みつが腕組みをする。「辰は、さゆりに忠誠な感じですね。ユリアもそうなのでしょうか」
「一緒に来なかったところから考えると」珠子が言う。「ユリアもさゆりには頭が上がらなさそうだね。辰にだけ下知されたんだろう」
「それを守ると言う事は、さゆりとは、相当の者ですわね」冨美代が言う。「楓が思っている以上に、さゆりの組織はしっかりしているのではないでしょうか?」
「それは言えそうだ」静はうなずく。「うかうかしていられないよ! あいつらは、何としてでもさとみを引っ張り出そうとするだろうからね!」
「さとちゃん」冨がさとみを見つめる。「いいね? 絶対屋上へ行っちゃ、さゆりと会っちゃダメだよ。楓がどうなろうと、決して動いちゃダメだよ」
皆も真剣な顔でうなずき、さとみを見る。さとみは一人一人の顔を見てうなずき返した。
「分かっています。今は、どう動いていいのか分からないですから……」
「さすが、わたしの孫だ」冨は笑む。「聞き分けの良い所は、わたしそっくりだよ」
「そうだっけ?」静が横槍を入れる。「結構手を焼いた想い出があるけどねぇ……」
「どっちにしろ、お前ほどじゃないさ」珠子が言って笑う。「わたしは、お前を生んだことを幾度後悔した事か。お前は言う事を聞かないの権化だったよ」
皆は笑う。場の雰囲気が和んだ。
「さあ、そろそろ嬢様はお眠の時間でやすね」豆蔵が言う。「明日も学校がありやすからね。休んでくだせぇやし」
「わたしたちはさゆりに付いてもう少し調べてみます」みつが言う。冨美代もうなずく。「大丈夫、危ない真似はしませんから」
「わたしも、さとみちゃんと皆を信じて待つことにするわ」虎之助が言う。浮かべた笑みが健気に見える。「だから、さとみちゃん、絶対無茶しないでね」
「うん、分かったわ」さとみはうなずく。「みんな、ありがとう。でも、みんなも絶対無茶は禁物よ。それに、片岡さんがさゆり封印の手段を探ってくれているわ。それが分かってからでも遅くはないと思う」
「片岡さんかい」静が浮き浮きした声で言う。「あの人が言うんなら、近いうちに封印の仕方が見つかるさ」
「ほら! 帰るよ!」珠子は言うと、静の左耳を引っ張る。「良い歳して惚気てんじゃないっての! 我が娘ながら情けない……」
それぞれがさとみに一礼して壁から消えて行く。
「さとちゃん……」最後に残った富がさとみの手を取る。「いいね? くどいかもしれないけど、一人で動いちゃいけないよ」
「うん、分かっているわ」さとみは言う。「わたし一人じゃ、何にも出来ないって知っているから」
富は笑みを浮かべてうなずくと、さとみの手を放し、壁へと入って行った。
皆がいなくなって、さとみは霊体を生身に戻す。ふうと大きく息をつく。机の上の目覚まし時計を見ると、いつもならぐうすか寝ている時間だった。さとみは思い出したように欠伸をした。そのまま、ごろりとベッドに寝転がる。
どうも、今一つ現実感に乏しい。
……屋上のさゆりかぁ。どうしてこんな事になっちゃったんだろうなぁ。確かに黒い影とは対峙したけど、それは向こうが悪かったんだし。わたしはいつものようにしただけだし。それで恨みを買っちゃうなんて、何だか理不尽だわ(さとみは最近覚えた言葉を使ってみた)。とにかく、屋上へ行かなければ問題ないわね。片岡さんがさゆりの封印が出来るまで、屋上に行かない生活を続ければいいだけよ。そうだ、『百合恵会』のみんなにも言っておこう。わたしに繋がっているから、ひょっとして何かされちゃうかもしれないから。朱音ちゃんやしのぶちゃんは素直に聞いてくれると思うし、麗子も開き直ったって言っても、怖がりだから大丈夫だと思うけど、問題はアイよねぇ。しょっちゅう屋上でさぼっているみたいだから。わたしが言っても聞いてくれるかなぁ。百合恵さんからも注意してもらおうかなぁ。でも、百合恵さん、困った場面を、どこか面白がるところがあるからなぁ。
……楓かぁ。連れて行かれちゃったけど、どうなるんだろう? みんなは気にしていないようだったけど、本当に改心したんなら、そのままにしてはおけないわ。でもなぁ、連れて行かれたって言うのでさえ、芝居じゃないかって思っちゃうんだよなぁ。わたしが心配して、楓を追いかけて、そこでさゆりと会っちゃって、「うわっはははは! お嬢ちゃん(楓って、わたしをそう呼ぶのよね。気に入らないわ)、引っ掛かったね! お前はもうさゆりの餌食だ! 諦めな!」なんて言い出しかねないもんなぁ。でも、本当にさゆりに捕まって、瀕死の状態かも知れないわ。いやいや、そんな事無いわ。だって、あの楓だもん。楓については百合恵さんに相談してみた方が良いわね。「楓も子供じゃないんだから、自分で何とかするんじゃない? 出来なきゃ、そこまでだったのよ」なんて、百合恵さんなら言いそうだわ。
……しばらくはこんな感じの作戦会議が続くわよね。わたしもしっかりしなくちゃ。豆蔵に「嬢様はもうお眠」なんて言われちゃうのは癪だわ。わたしだって、もう充分に大人だわ。多分……
すうすうと言う音が流れてきた。さとみの寝息だった。
「……やっと寝たようだね」囁くように言ったのは富だった。「寝つきの早い子だねぇ」
「でもさ、早くに寝てくれた方が、身を隠し続けなくて良いから楽だよ」そう言って姿を現わしたのは静だった。「見張り番って言ってもね、寝てくれなきゃきついからさ」
「まあ、言えるわねぇ」冨も姿を現わす。「……にしても、可愛い寝顔だねぇ」
「わたしに似たのさ」
さとみに内緒で、皆で交代しながらさとみを見張る事にしたのだ。浮遊霊の辰やユリア、そのほかの碌で無しが現われた時に備えているのだ。どこまで応戦できるかは分からないが、やれるところまでやってみようと言う事になったのだ。さとみが知ると心配するし、止めるように言うに決まっているし、一緒になって寝ない可能性もある。
穏やかそうな寝顔を富と静は眺めている。今夜は何も起こらなさそうだ。
つづく
さとみは、楓と辰が消えた壁を見つめてつぶやく。
「辰の野郎、あっしらに知らん顔でやしたね……」豆蔵が言う。知らずに浮かんだ額の汗を拭っている。「でも、とんでもねぇ迫力で……」
「さゆりが楓を連れて来いと言ったと……」みつが腕組みをする。「辰は、さゆりに忠誠な感じですね。ユリアもそうなのでしょうか」
「一緒に来なかったところから考えると」珠子が言う。「ユリアもさゆりには頭が上がらなさそうだね。辰にだけ下知されたんだろう」
「それを守ると言う事は、さゆりとは、相当の者ですわね」冨美代が言う。「楓が思っている以上に、さゆりの組織はしっかりしているのではないでしょうか?」
「それは言えそうだ」静はうなずく。「うかうかしていられないよ! あいつらは、何としてでもさとみを引っ張り出そうとするだろうからね!」
「さとちゃん」冨がさとみを見つめる。「いいね? 絶対屋上へ行っちゃ、さゆりと会っちゃダメだよ。楓がどうなろうと、決して動いちゃダメだよ」
皆も真剣な顔でうなずき、さとみを見る。さとみは一人一人の顔を見てうなずき返した。
「分かっています。今は、どう動いていいのか分からないですから……」
「さすが、わたしの孫だ」冨は笑む。「聞き分けの良い所は、わたしそっくりだよ」
「そうだっけ?」静が横槍を入れる。「結構手を焼いた想い出があるけどねぇ……」
「どっちにしろ、お前ほどじゃないさ」珠子が言って笑う。「わたしは、お前を生んだことを幾度後悔した事か。お前は言う事を聞かないの権化だったよ」
皆は笑う。場の雰囲気が和んだ。
「さあ、そろそろ嬢様はお眠の時間でやすね」豆蔵が言う。「明日も学校がありやすからね。休んでくだせぇやし」
「わたしたちはさゆりに付いてもう少し調べてみます」みつが言う。冨美代もうなずく。「大丈夫、危ない真似はしませんから」
「わたしも、さとみちゃんと皆を信じて待つことにするわ」虎之助が言う。浮かべた笑みが健気に見える。「だから、さとみちゃん、絶対無茶しないでね」
「うん、分かったわ」さとみはうなずく。「みんな、ありがとう。でも、みんなも絶対無茶は禁物よ。それに、片岡さんがさゆり封印の手段を探ってくれているわ。それが分かってからでも遅くはないと思う」
「片岡さんかい」静が浮き浮きした声で言う。「あの人が言うんなら、近いうちに封印の仕方が見つかるさ」
「ほら! 帰るよ!」珠子は言うと、静の左耳を引っ張る。「良い歳して惚気てんじゃないっての! 我が娘ながら情けない……」
それぞれがさとみに一礼して壁から消えて行く。
「さとちゃん……」最後に残った富がさとみの手を取る。「いいね? くどいかもしれないけど、一人で動いちゃいけないよ」
「うん、分かっているわ」さとみは言う。「わたし一人じゃ、何にも出来ないって知っているから」
富は笑みを浮かべてうなずくと、さとみの手を放し、壁へと入って行った。
皆がいなくなって、さとみは霊体を生身に戻す。ふうと大きく息をつく。机の上の目覚まし時計を見ると、いつもならぐうすか寝ている時間だった。さとみは思い出したように欠伸をした。そのまま、ごろりとベッドに寝転がる。
どうも、今一つ現実感に乏しい。
……屋上のさゆりかぁ。どうしてこんな事になっちゃったんだろうなぁ。確かに黒い影とは対峙したけど、それは向こうが悪かったんだし。わたしはいつものようにしただけだし。それで恨みを買っちゃうなんて、何だか理不尽だわ(さとみは最近覚えた言葉を使ってみた)。とにかく、屋上へ行かなければ問題ないわね。片岡さんがさゆりの封印が出来るまで、屋上に行かない生活を続ければいいだけよ。そうだ、『百合恵会』のみんなにも言っておこう。わたしに繋がっているから、ひょっとして何かされちゃうかもしれないから。朱音ちゃんやしのぶちゃんは素直に聞いてくれると思うし、麗子も開き直ったって言っても、怖がりだから大丈夫だと思うけど、問題はアイよねぇ。しょっちゅう屋上でさぼっているみたいだから。わたしが言っても聞いてくれるかなぁ。百合恵さんからも注意してもらおうかなぁ。でも、百合恵さん、困った場面を、どこか面白がるところがあるからなぁ。
……楓かぁ。連れて行かれちゃったけど、どうなるんだろう? みんなは気にしていないようだったけど、本当に改心したんなら、そのままにしてはおけないわ。でもなぁ、連れて行かれたって言うのでさえ、芝居じゃないかって思っちゃうんだよなぁ。わたしが心配して、楓を追いかけて、そこでさゆりと会っちゃって、「うわっはははは! お嬢ちゃん(楓って、わたしをそう呼ぶのよね。気に入らないわ)、引っ掛かったね! お前はもうさゆりの餌食だ! 諦めな!」なんて言い出しかねないもんなぁ。でも、本当にさゆりに捕まって、瀕死の状態かも知れないわ。いやいや、そんな事無いわ。だって、あの楓だもん。楓については百合恵さんに相談してみた方が良いわね。「楓も子供じゃないんだから、自分で何とかするんじゃない? 出来なきゃ、そこまでだったのよ」なんて、百合恵さんなら言いそうだわ。
……しばらくはこんな感じの作戦会議が続くわよね。わたしもしっかりしなくちゃ。豆蔵に「嬢様はもうお眠」なんて言われちゃうのは癪だわ。わたしだって、もう充分に大人だわ。多分……
すうすうと言う音が流れてきた。さとみの寝息だった。
「……やっと寝たようだね」囁くように言ったのは富だった。「寝つきの早い子だねぇ」
「でもさ、早くに寝てくれた方が、身を隠し続けなくて良いから楽だよ」そう言って姿を現わしたのは静だった。「見張り番って言ってもね、寝てくれなきゃきついからさ」
「まあ、言えるわねぇ」冨も姿を現わす。「……にしても、可愛い寝顔だねぇ」
「わたしに似たのさ」
さとみに内緒で、皆で交代しながらさとみを見張る事にしたのだ。浮遊霊の辰やユリア、そのほかの碌で無しが現われた時に備えているのだ。どこまで応戦できるかは分からないが、やれるところまでやってみようと言う事になったのだ。さとみが知ると心配するし、止めるように言うに決まっているし、一緒になって寝ない可能性もある。
穏やかそうな寝顔を富と静は眺めている。今夜は何も起こらなさそうだ。
つづく
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