スウェーデンのジャズボーカリスト、モニカ・ゼタールンドのファンだったら見逃せない映画という噂をきいて、金曜日のオフは横浜へ出かける。昔、「大勝館」や「テアトル横浜」のあったくたびれた場末感が色濃く漂う若葉町の一角にある「シネマ ジャック&ベティ」というミニシアターがお目当てだ。平日の午後イチ上映で昼飯を抜いているから、すぐ横にある「大沢屋」のサンマー麺をと思ったら金曜は定休日だった。
すぐに鎌倉街道沿いの交差点にある「一番」のサンマー麺に場所替えする。塩辛くさえなければ老齢単身生活者にはサンマー麺は野菜がたっぷりの総合栄養食でいつも重宝している。相棒の佐々木さんは定時昼食済みにも関わらず「ベツ腹」と称してここのサンマー麺を褒め称えながら完食している。「大沢屋」のものよりも醤油の殺し方が上手いスープで塩味が遠くの方にあるから口当たりがよい。さすが半世紀以上のキャリアを誇る横浜庶民食堂の味わいだ。
「ジャック&ベティ」はマイノリティ映像表現への目配りが効いているプログラムが良心を反映しているミニシアターとして名高い。「ストックホルムで。。」はベティの方の演目になっている。客席数は138、眺めやすいポジションで平日、午後という酔狂な来客は30名くらいか。映画はシングルマザーの癇性もちで才気も素晴らしいモニカ役をエッダ・マグナソンという現役シンガーが演じている。
モニカのジャズ的頂点は1963年のフィッリプス盤「ワルツ・フォー・デビー」だ。そのモニカが夢見ていたエバンストリオとの共演を勝ちとるまでの家族上の葛藤、恋愛遍歴を散文的にしないでスピーディーにまとめたところがこの映画の長所だと思った。随所に登場するジャズ曲はどれもこれも素晴らしい。その背景映像を眺めながら歌は人生だと思うシーンが続出する。しょっぱなに流れるリズムや管楽器の分厚く臨場感あふれるサウンドに守られて歌う「イッツ・クッド・ハプン・ツー・ユー」を聴いて思わず涙腺が緩んでしまう。このイントロ曲を聴いてわかったのはモニカの声質とエッダ・マグナソンとの違いだ。端的に云えばモニカの声は曲線、エッダの声は直線に味わいがあることだ。アルネ・ドムネラスバンドの夏巡業で景気よく歌う「旅立てジャック」などはエッダ・マグナソンのジャズ的パンチ力の真骨頂を感じさせる。デイブ・ブルーベックの大ヒット曲「テイク・ファイブ」のことをスウェーデンでは「イ・ニューヨーク」と呼んでいることも初めて知った。この曲の映像を覆い尽くすゴージャスなサラウンド的ホールトーンを味わいながら、ああ自分は映画の中にいて幸せだと思った。
この映画には1950年代末期のスウェーデンの生活事物もふんだんに登場してレトロ好きな好事家にはこたえられないものがある。小さな子を置き去りにして気丈なママが夏のツアーに乗りこんでいるお洒落な赤色のバスは航空機製造のサーブスカニエ社のものだろうか?モニカが再婚した「私は好奇心の強い女」の映画監督の書斎に置かれているテープデッキはあのいかつい躯体から推測すると「ターンバーグ」ではなかろうか?はたまたモニカが憧れているビル・エバンストリオが奏でる「ワルツ・フォー・デビー」を聴いた後に仕舞い込むハンマートーン色の小型プレーヤーはデンマークの「デルフォン」ではなかろうか?等と推察を始めたらきりがない。モニカ・ゼタールンドの歌った愛すべき曲はビル・エバンスとの「ワルツ・フォー・デビイ」「サム・アザー・タイム」だが、この映画をみて「ゆっくり歩こう」というスウェーデン歌謡調の曲も愛好曲の列に加わってくれた。
https://www.youtube.com/watch?v=GF_NDRM3498