われらしんじんのこども

真人幼稚園の子どもたちの日々の様子や、
  楽しいエピソードなどをお伝えしています。

三人跳び!

2006-11-30 15:58:00 | Weblog
 みなさん、こんにちは。
 今日の昼過ぎに運動場で遊んでいると、すみれ組の女の子三人が私のところへやってきて三人跳びができたから見ててくれないか?と言いました。(写真)
 これまでも二人並んで(あるいは向かい合って)跳ぶ二人跳びは毎年何人かの子どもたちが挑戦して成功していましたが、三人は初めてであります。一人跳びや長縄に毎日毎日夢中で取り組んできた子どもたちなので、いつしか縄を自在に操れるようになったのでしょうか。誰が教えたわけでもないのに(ごく自然発生的に)三人跳びに挑戦してみたようで、やってみたら、あらできちゃった!ということのようです。やってみたらできちゃった!というところがいいと思いませんか?さすがしんじんの子どもですね!

 そんなふうに運動場を見渡してみると、一人縄跳びに黙々と取り組む姿があっちにもこっちにもたくさん見られます。年長、年中はもとより、年少の子どもたちもこの頃はたくさん跳んでいる姿を見かけます。まわしてぴょん!の初歩段階の子もいれば、どこで覚えたのか既にぴょんぴょん軽快に跳べる子もいて様々ですが、とにかくみんな楽しそうに跳んでいるので、見ているこちらまで嬉しいような清々しい気持ちになります。ときどき「先生一緒に跳ぼうよ」と誘われて二人跳びに挑戦することがありますが、見事成功した時などはやはり感慨深い思いがします。
 それから「せんせいは跳べるのお?」「跳べないんじゃない?」と鋭く試されたりすることもあり、そんな時には待ってましたとばかりに二重跳びなんかをバリバリと跳んで見せることもあります。園児で二重跳びに成功した子どもをまだ見たことがないので、二重跳びできたよ!と誰かが報告に来る日を心待ちにしているのですが。
 いずれにしても、今日もしんじんの子どもたちはぴょんぴょんぴょんと跳び続けています。

 さて、今週末には年中組の音楽会がおこなわれますが、今週月曜日から連日のように運動場で全体的な練習をおこなっております。そのパワー、集中力の素晴らしいこと。保護者の皆様、どうぞご期待下さい。

 寒気団の影響で急に冷え込んでまいりましたが、皆様お風邪など引かれませぬようご自愛下さい。

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

さざんかの花咲く

2006-11-24 14:30:00 | Weblog
 皆様いかがお過ごしですか。
 園庭にあるさざんかが今年もたくさん花をつけ、子どもたちの何人かが私にそれを知らせに来てくれました。さっそく一緒に外に出て見に行ってみると、うす桃色の可憐な花が寒風に晒されながらも凛として咲いておりました。(写真)

 花と言えばとかく春から夏にかけて咲くものと思いがちですが、そんなことは決してないのですね。秋に咲く花もあれば、真冬に咲く花もある。職員玄関前に植えてある寒椿などは1月から2月にかけて雪に埋もれ寒さに凍りつきながらも懸命に咲く。そういう花たちを見ていると、ただ単に美しいとか、可憐で素敵!とか、そういった紋切り型の表現では簡単に言いつくせない、もっと圧倒的で根源的な生命の力強さを感じずにはおれません。そしてそういう草花に不思議と勇気づけられている自分を発見することがあります。
 赤く咲いても冬のはな~♪ さざんかの花咲く季節です。

 さて、明日はいよいよ年長組の音楽会がおこなわれます。今日はそのリハーサルがおこなわれ年中・年少児たちが運動場に一堂に会して鑑賞しましたが、それはそれは見事な仕上がりとなっておりました。保護者の皆様、どうぞお楽しみにおいで下さい。
 おしまいに、以前音楽会に寄せて書いた詩を一篇、ここに再録します。

「子どもと音楽」
    まえだ かん

ひとはなぜ歌うのだろう
ひとはなぜ奏でるのだろう
ひとはなぜ踊るのだろう
こたえはいつも
すぐそばに
すぐそこにある
目には見えないけれど
手ではさわれないけれど
耳をすませば聞こえてくる
きみとぼくのあいだ
そらとうみのあいだ
だいちとかぜのあいだに

大切なことを伝えようとして
うまく言葉にできないとき
あふれそうな喜びを
きみにもわけてあげたいとき
静かにふりそそぐかなしみに
こころがはりさけそうなとき
きみとぼくが
いまここにいるということの
ちいさな記念に
ひとは歌うのだろう
ひとは奏でるのだろう
ひとは踊るのだろう

抱きしめるようにやさしく
手をとりあうように力強く
こころを大きくふるわせて



 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カレーパーティー(18年度あお)

2006-11-22 13:48:10 | Weblog
 17日(金)に年長組の子どもたちが保護者を招いてカレーをご馳走する、カレーパーティーが今年もおこなわれました。
 春から育ててきたお米とジャガイモの他に前日近くのスーパーでみんなで買い物して来た材料を使い、子どもたちがひとりひとり順番に野菜を切ったり、できたカレーの配膳などをしたりしました。
 私もごちそうになりましたが、子どもたちが作ったカレーはまた格別の美味しさでありました。年長組の皆さん、ありがとうございました!
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カレーパーティー(18年度そら)

2006-11-22 13:40:18 | Weblog
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カレーパーティー(18年度ばら)

2006-11-22 13:36:51 | Weblog
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

十五歳になったきみに

2006-11-15 23:57:00 | Weblog
『十五歳になったきみに』  
        まえだ かん

十五歳になったきみに
ひとこと伝えたい
きみに会えてよかった、と。
どうしてこんなことを言うのかというと
たぶんぼくには
十五歳になったきみに
してあげられることは何もないだろうと
おもうからだ。
それはかつて十五歳だったぼくが
まわりの誰をも必要としていなかったのと
ほぼ同じ意味あいにおいて。
だからぼくは
きみのために
このままずっと黙っていようと思う。
よけいな手出しはすまいと思う。
遠いところからずっときみを見ていようと思う。
かつて十五歳だったぼくは
まわりの大人たちに対して
少なくともこう思っていた。

「ぼくは大丈夫です、ほんとうに大丈夫です」と。

それはぼくなりの声高らかな独立宣言でもあった。
もちろん口に出して言ったわけではない。
心の中でぼそぼそと呟いていただけだ。
十五歳になったきみも
もしかしたらそんなことを考えているんじゃないか?
もしそうだとしたら
きみはもう
自分のことは自分でやらなくてはならない。
本当の意味での独立を果たすために
自分の足で歩き始めなくてはならない。

十五歳になったきみは
どんな場所を歩いているのだろう。
そこは明るい場所かも知れない。
あるいは、じめじめと暗い場所かも知れない。
いまきみのいる場所はどんなところですか?
たくさんの友だちに囲まれているのでしょうか。
泣いたり、笑ったり、けんかしたり、
何かに夢中になったり、あきらめたり。
それともひとりで公園の芝生に寝転んで
吸い込まれそうな青空に
いつまでも心を奪われているのでしょうか。
十五歳になったきみは
あるいは恋をしているかも知れない。
開きかけた教科書なんか机の引き出しに放り込んで
さあ、恋文をしたためよう!
(こいぶみという言葉もあるのだよ、世の中には)
間違っても恋をメールで打ち明けてはいけない。
それはただの連絡だ。報告だ。手続きだ。
恋は自分の肉体を通して
燃え盛る焔のように語らなくてはならない。
書くのが面倒なら声に出してみればいい。
声は空気を震わせ、沈黙を突き破り
やがて誰かの心を震わせるだろう。
もちろんうまく伝わることもあるし
うまく伝わらないことだってある。
それでも恋は素晴らしいものだ。
恋をすると
人はさびしさや悲しみを知ることができる。
人間はみなひとりだけど
決してひとりぼっちじゃないということに気づく。
それはほとんど奇跡に近い。
奇跡はいつもいつも起こるわけではない。
十五歳になったきみには
奇跡をつかまえることができる。

十五歳になったきみは
自分の未来について考えるだろう。
自分の未来について考え、
恋する人の未来について考え、
親やきょうだいの未来について考える。
それは人間がどこから来て
どこへ行こうとしているのか
過去と未来のひとつの繋がりを
ぼくらはみんな知りたいと願っているからだ。
けれども十五歳のきみにはもう
未来は永遠に続くものではない
ということもわかっているはずだ。
無限に続いていくように思える時間にも
必ず終わりがあることをきみは知っている。
それはとても厳しい事実だ。
だから何をやっても意味がない、という人もいる。
終わりが来ることに耐えられない、という人もいる。
生きている今さえよければいい、という人もいる。
いずれにしてもぼくらはそれを受け入れなくてはならない。
何が正しくて何が間違っているか
どんな生き方を選べばよいのか
それはぼくにもわからない。
せっかく生まれてきたのだから
人生は楽しいほうがいいに決まっている。
ユーモアは生活を豊かにする。
笑いのない人生は出汁をとり忘れた味噌汁のようなものだ。
人生は楽しむべきものである。
でもいつもいつも楽しいことだけが
人生の醍醐味ではないということもぼくにはわかった。
ぼくらの心には、光と闇がある。
人を思いやる心もあれば、憎しみの心もある。
燦々と太陽の降り注ぐ日もあれば
どしゃ降りの日もある。
喜びで満たされる日もあれば
ぽっかりと大きな穴のあくこともある。
どんな歓喜の渦の中にあっても
人の哀しみは消え去りはしないものだし
絶望の深い淵に佇んでいても
朝の訪れない夜はない。
だから未来は
ぼくらが自分で作っていくものだ。
そこにはいろんな生き方があっていい。
いろんなひとがいろんな創意工夫をすればいい。
いろんなスタイルを持った人々が
いつも自分らしく生きてゆける
そんな懐の深い世の中になればいい。
人はどんな生き方をしてもいいのだ、本当は。
たったひとつの生き方しかできないなんて
ほかにはもう生きる道がないなんて
それではあんまり寂しいじゃないか!
それではあんまりつらいじゃないか!

十五歳になったきみに
何度でも伝えたい
きみに会えてよかった、と。
どうしてこんなことを言うかというと
じつはぼくは知っているんだ
たぶんきみはぼくのことを
いつか忘れてしまうだろうということを。
いまのきみはまだ子どもかも知れないけれど
やがて十五歳になり、そして大人になる。
大人になると、人はいろんなものを忘れてしまう。
何もかも全部を憶えていては生きていけないものなんだ。
忘れてしまうしかないことだって、たくさんあるんだ。
このぼくだってそうだ。
たくさんの人に出会い、すれ違い、別れてきた。
いろんなことを知り、憶え、忘れてきた。
嬉しいこともあった。
悲しいこともあった。
胸つぶれるような思いもした。
死んでしまいたくなるようなことだって、確かにあった。
それでも、やがてあらゆるものは通り過ぎていく。
そして歳をとればとるほど、人は忘れっぽくなる。
それは決していけないことではない。
忘れるのは良いことでさえある。
だからきみがぼくを忘れてしまっても
それはそれで仕方がないことだと思う。
しかしそれとはべつに
ぼくらにはぜったい忘れてはならないこと
というものもあるはずだ。
自分らしく(あるいは人間らしく)あるために
失ってはならないものもあるはずだ。
きみがどこでどんなふうに暮らしていても
それを見失ってはいけないよ。
たとえば、きみがいまひとりぼっちだと感じていても。
誰もわかってくれないからといって
放り投げて捨ててしまったり
自分の足で踏みつけたりしてはいけない。
いつも上手にできなくたっていいじゃないか。
ぼくらはロボットじゃないんだから。
気持ちをうまく言葉にできないときは
無理にしゃべらなくたっていいじゃないか。
誰もが誰とでもわかりあえるわけじゃないんだから。
ひどいことを言う人もいる。
ひどいことをする人もいる。
心ない人々に奪われそうになったら
その小さな胸にしっかり抱いておくんだ。
でも生きていると
かならずきみの言葉に耳を貸してくれる人がいる。
きみのことをまるごとぜんぶ受け止めてくれる人がいる。
きみに生き続ける勇気と力を与えてくれる人がいる。
今はいないかもしれない。
でもどこかにきっといる。
いつか、そのひとを見つけるんだ。

十五歳になったきみに
たくさん伝えたい
きみに会えてよかった!
きみに会えてよかった!




※やがては十五歳になるであろうしんじんの子どもたちと、昔いちどは十五歳だった自分自身のためにこの詩を書いてから、はや3年が過ぎました。しかしその間にもいじめや虐待はさらにエスカレートして、多くの子どもたちが次々と死に追いやられています。いじめも虐待も、これらはすべてこの国を構成している私たち大人の責任であると私は考えています。誰か一人に責任を押し付けて、加害者たちを追及しても、問題の根本的な解決にはなりません。社会全体が変わる必要があるのです。私たち大人が変われば社会全体が変わり、ひいては子どもたちも変わるはずなのです。誰も本当はいじめや虐待なんかしたくないはずなのです。子どもはすべて「愛されたい、愛されたい」と願って生まれてくるのだし、きちんと愛情を注がれ人格を認められて育った人間はむやみに人をいじめたり大人になってわが子を虐待するようなことは決してしないのです。
 
 けれども、現にいま本当に辛くて死にそうな人(死のうと思っている人)がいたら、どうか迷わず逃げてください!どこでもいい。とにかく今すぐその場から立ち去ってください。逃げても逃げても、もう行くところがないというのなら、ぼくのところへ来ればいい。いつも立ち向かうことばかりが勇気じゃありません。もうそれ以上頑張る必要はありません。頑張っても頑張ってもうまくいかないことなんか、人生にはたくさんあります。命を失うくらいならさっさと逃げだしたほうがいいのです。学校もその他のいかなる組織も、そもそも自分の命を賭けてまでしていなければならないところではないのですよ。
 とにかく、死なずに生き続けること、それが何よりも大切なことです!


コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

18年度 子どもの真人祭(みどり1)

2006-11-02 12:20:48 | Weblog
 きょうは子どもたちと教職員とで作品を鑑賞しあう、「子どもの真人祭」がおこなわれました。子どもたちは同じクラスの友だちの作品はもとより、他のクラスや他の学年の子どもたちの作品も熱心に鑑賞しておりました。

 明日はいよいよ一般に公開される「うれしい!たのしい!みんなの真人祭」であります。どうぞ皆様、ご家族ご親戚ご近所の方々もぜひお揃いでお越し下さい。われらが愛すべきすべてのしんじんの子どもたちの健やかなる成長を共に喜び合い、わかち合おうではありませんか!

 教職員一同、心よりお待ち申し上げております。
コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

18年度 子どもの真人祭(みどり2)

2006-11-02 12:04:49 | Weblog
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

18年度 子どもの真人祭(みどり3)

2006-11-02 12:04:10 | Weblog
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

18年度 子どもの真人祭(みどり4)

2006-11-02 12:03:36 | Weblog
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする