2024/11/29 fry
前回の章
印刷して本にした『パパンとママン』。
俺は早速大正浪漫通りにある加賀屋のおばさんのところへ持っていく。
「おばさん、俺クレッシェンド以外に、こういう作品も書いているんですよ。暇な時読んでもらえますか?」
「何また智ちゃん、新しい小説書いているの? ほんと次から次へと書けるもんだねー」
「クレッシェンドはシリアス系の小説だけど、今度のはコメディなんですよ」
「へえ、智ちゃんは面白し変わっているからね。あとでおばさん読んでみるよ」
「感想教えて下さいねー。それじゃ俺はまた帰って執筆しますから」
「あ、智ちゃん。おばさん、カレー作ったから食べていきなよ」
「今度ゆっくり頂きますよ。今は帰って書きます」
あとで感想を聞くのが楽しみだ。
やっぱりインターネットの声と、実際の知り合いの声は全然違うだろうし。
まあこの作品が俺の本分というわけではないが、周りの反応は把握しておきたい。
部屋に到着すると、俺は早速『パパンとママン』を開く
第八章《烏龍茶》
朝起きると頭がガンガンして痛かった。昨日はかなり飲み過ぎたなあ。あんなに飲めば、二日酔いになるのは当然だろう。
僕はお財布をもう一度チェックしてみる。やっぱりお金がない。千円札一枚しか入っていなかった……。
冷静に思い出そう。昨日はこの中に十万円入っていたのだ。まず雑貨屋の『タマらん』で扇子を買い、一万円。
そのあとはスナック『月の石』へ行き、ヘネシーを入れた。確かあれ、一本三万円とかれっこが言っていたっけ。あの辺から記憶が定かじゃないんだよなあ……。
お財布の中に入っていた『新道貴子ボインタッチポイントカード』。捺印が五つも押してある。よく思い出せ。確か新道貴子がもう一本入れたら捺印押すと言うから、さらにボトルを入れたんだよな……。
待てよ? 何で最初の一本入れた時は捺印三つなのに、もう一回入れて捺印一つなんだ? ちょっとこれは変だ。おかしい。それにれっこの奴、サービスするとか言っといて、何でこんなにお金がゴソッとなくなっているのだ。
おかげで帰り道、寂しい気持ちのまま牛丼を食って帰ったのだ。
十万も使って遊んでおいて、これだけ? 豪遊って本当はもっと違うものなんじゃないのか。
いいのか、こんなもんで僕は……。
今、手元に残っているのは『ビバ、ツトム88』と書かれた扇子と、ボインちゃんのポイントカード捺印五つだけ。だいたい最初は缶コーヒー一本で捺印一つなのに、何故三万もするヘネシーを入れて捺印三つなのだ?
「十万使ってこれだけかよ、チクショー!」
僕が部屋で怒鳴ると、ママンが眠そうな顔をしながらやってきた。
「うっさいわね~。何なの、こんな朝っぱらから」
「い、いや、別に何でもない……」
「まあいいわ。あとちょっとしたら、またお店の準備でしょ」
「それがさ、ママン。今日の僕、ちょっと具合がおかしいんだ。今日、お店休みにしない?」
「何をあなたは言っているの? 甘ったれた事言ってないで早く準備しなさい」
「でもさ、僕頭がガンガンするんだよ。普通のガンガンじゃないよ? う~ん、そうだなあ。しいて言えば『イワイワガンガン』ってぐらいすごいの」
「馬鹿言ってないで早く準備しなさい」
「僕、今日は休みたいよ~」
「あっそ、分かったわ」
やけに物分りのいいママン。よし、今日は布団の中でずっとぬくぬくしてよう。
「ごめんね、明日はキチッと頑張るから」
「何を言っているの? 明日なんてもうないわよ」
「え?」
「努は休むんでしょ?」
「う、うん」
「じゃあ、約束通り私はパパンと離婚。そしたらこの家を売り払うから、あなたは明日から一人で生きるだけだから」
「澄ました顔で、何て恐ろしい事言うんだよ?」
「だって最初に約束したじゃない?」
こうなると僕から折れるしか方法はない。
「分かったよ~。今日も頑張ります。それならいいでしょ?」
「ん、よろしい」
ママンはそう言うと、下へ降りていった。
経営っていうのは本当に大変だ。自分の体調が悪かろうが、やらなきゃいけないんだもんな。今度から飲み過ぎには気をつけないといけない。僕は昨日だけで、今までの約一ヶ月分の給料を一気に使い果たしたのと一緒なんだから……。
ママンが今日のメニューの仕込みをしている。ママンの作る料理の数はいつも的確だった。自分の母親ながら、その鋭い嗅覚にはビックリしてしまう。
「よし、できた。今日のメニューは『魔女っ子カレー』と『幻のうどんそば』。それに『アマゾン風究極ドラゴン』よ」
「え、ちょっと待って? 何その『アマゾン風究極ドラゴン』って? それって料理でも何でもないじゃん」
「ああ、いいのよ、これで。お客さんには『頼んでからのお楽しみですよ』って言えば、みんなきっと注文するだろうから」
そんないい加減な……。
「いや、そういう問題じゃなくてさ」
「いいのいいの。細かい事なんざ気にしちゃ駄目よ。中身はこれ、ただの『焼きおにぎり』だから」
「えー、全然関係ないじゃん」
「しかも冷凍食品」
「えー! ありえないでしょ?」
「それは嘘よ、うふ」
「ほんとに? それにさこんなすごいネーミングつけといて、実はただの焼きおにぎりだと分かったら、お客さん怒るんじゃないの?」
「その時はその時で私が駆けつけてきてあげるわ」
絶対に嘘だと思った。だってこの間僕が客に膝蹴り喰らった時だって、全然来なかったもんな。
「そういう問題じゃなくてさ。何て言うのかな。もっとこうさ……」
「ああ、ごめんごめん。ただの焼きおにぎりじゃなくて、まずお皿に引くでしょ?」
「焼きおにぎりを?」
「そうそう。で、ラーメンのスープも実は私が作っといたのよ。それを掛けて」
「え、だって焼きおにぎりに、スープなんて掛けちゃって大丈夫なの?」
「大丈夫。それは焼きおにぎり用のスープとして調整してあるから」
「そんなの聞いた事ないけど……」
「あとは冷蔵庫に私が刻んで置いた『シナチク』、『ネギ』、『卵』と上に乗せて、ノリも一枚ぐらい乗っけといて」
「それってラーメンと変わらないじゃん。麺の代わりに焼きおにぎりが入っているってだけでさ……」
「大丈夫よ、セリョリータ。ママンの作る料理の味は、幼い頃からあなたが一番知っているはずでしょ?」
「ま、まあそうだけどね。でもさ、あとのメニューも変だよ? 何、『魔女っ子風カレー』って? 僕が客に出す時、『へい、魔女っ子風カレーお待ち!』とか言いながら出す訳?」
「だって魔女っ子風味なんだもの。しょうがないじゃない。普通のカレーなんかじゃ、うちの客はなびかないわ」
「じゃあ、それはいいよ…。でもさ、もう一つ。『幻のうどんそば』って何?」
「ああ、多分ね。ママンが思うにはさ。この広い世界でうどんとそばを一緒に入れて出す店なんて今までないと思うの」
「当たり前じゃん。そんな店ないと思うよ」
「そうでしょ。それをやっちゃうわけ。幻でしょ?」
「……」
「何黙ってんのよ?」
「確かに幻かもしれないけどさ。お客さんの接客をするのは僕なんだよ?」
「そんなの知ってるわよ。でもね、私だってたまには仕込みを手抜きしちゃいたくなる時だってあるんだから」
「え、ちょっと待って。何、手抜きって?」
「あ、いっけな~い。そろそろ『若奥さまカラオケ突撃隊』の集合時間だわ。行かないと遅刻だわ」
ママンは腕時計などしてないのに、自分の手首を見ながら言っていた。
「え、何だよ、それ?」
「値段はカレーが五百円。うどんそばは六百円。ドラゴンは千五百円ね」
「えー、何だよ。最後のドラゴンは千五百円って? 随分高いじゃないか!」
「もう、ママンは忙しいのよ。ちゃんと決められた値段通りにとらないと、あとであんたの給料がないわよ。じゃあねー」
そう言ってママンは店を飛び出し、外へ行ってしまった。
どうすんだ、今日は……。
二日酔いで頭がイワイワガンガンの僕。そしてメニューは『魔女っ子風カレー』と『幻のうどんそば』。それに『アマゾン風究極ドラゴン』。プラスで僕の『目玉焼きセット』。こんなんで何をやれと言うんだ、ママンは……。
時間とは無情なもので、こんな状況だって構わずいつものように過ぎていく。
店を開ける時間になったので、僕はのれんを出した。
できれば仕事を投げ出したい自分がいる。だけど今の僕は千円しか持っていないのだ。どんな試練でも受けなければならない立場なのである。
それにしてもママンは酷い。普通のハンバーグと唐揚げとか作ってくれればいいのに…。今頃近所の若奥さま連中と一緒に、カラオケで楽しんでいるのだろうな。
ガラガラと音を立て入口のドアが開く。
「あ、タマはん! どうしたんだい、こんな時間に?」
近所の雑貨屋『タマらん』のおばちゃんの娘である高橋環、通称『タマはん』が中へ入ってきた。
「何よ、私がここに食べに来ちゃいけないって言うの?」
「いや、そんな事ないけど……」
「ほら、ボーっと突っ立ってないで、早く水ぐらい出しなさいよ。この泣き虫努が」
幼馴染のタマはんは相変わらず口が悪い。まあ今は客だから僕はグッとこらえ、素直に水を出した。
「何よ、このぬるい水は? ミネラルウォーターぐらい出しなさいよ」
「そんな洒落たものないって、タマはん」
「あんたね~、私は現役ピチピチ女子大生なのよ? いい加減その『タマはん』って言い方やめなさいよ」
「じゃあ、何て呼べばいいんだよ?」
「う~ん、普通に環さんでいいでしょ。あ、私お腹減ってんた。何か早く作ってよ」
「一応メニューはあそこにある四品だけど」
僕はカレンダーの裏に手書きで書いたメニューを指差した。
「はあ? 何あのメニュー…。ありえなくない?」
「うん、僕もそう思う……」
「アマゾン風? うどんそば? 何あれ?」
「何だっていいじゃんか! 早く腹減っているんなら、何か注文してよ。食べてまずかったら文句を言えばいいじゃないか」
「まったく泣き虫のくせに、すぐぶち切れる。あんた、将来犯罪者になるわよ?」
「冗談じゃないよ! 何で僕が犯罪者扱いされなきゃいけないんだよ?」
「うっさいわねー。とりあえず『幻のうどんそば』のうどんでちょうだい」
「いや、このメニューは選べないんだよ……」
「はあ、どういう事?」
「うどんとそばが一緒に入っているメニューなの?」
「何それ? 訳分からない……」
「まあ食べてみてよ。作り手の僕だって訳分からないんだからさ」
「変な店……」
「うん、パパンとママンの店だからね……」
僕は冷蔵庫からうどんとそばを取り出し、沸騰したお湯へ放り込んだ。
麺を茹でている間、僕はタマはんとの昔の事を思い出していた。
二つ年上のタマはんとは、僕が幼い頃よく一緒に遊んだらしい。お風呂まで一緒に仲良く入っていたそうだ。
これはママンから大人になってから聞いた話だけど、湯船に浸かっていた僕はタマはんの股間を見て、「ねえ、何で環ちゃんはおチンチンがないの?」と素朴な疑問をしたそうだ。ビックリした彼女は、自分の家である雑貨屋『タマらん』に慌てて帰り、親に向かって「私、おチンチン落としちゃった。おチンチン落としちゃった」と大泣きしたそうだ。
一度この事を大きくなってからタマはんに言って、ボコボコにされた事がある。
彼女にとってそれは禁句で忘れたい過去なのだろう。
「はい、お待たせ。『幻のうどんそば』です」
「あら、いい香りじゃない。へえ、ちゃんと作れるんだね。料理名と一緒でいい加減なのかと思ったよ。いただきまーす」
いつもひと言余計なタマはん。
「うん、ダシもきいていて、まったりとした口の中でほわっと広がるような味わい。とろけるようなそばに、歯応えのしっかりした腰のきいたうどん。泣き虫努のくせになかなかすごいじゃない」
あんたはどこかの評論家かいな……。
タマはんと会話をしていると、二人連れのカップルが入ってきた。一人は細身の優男風で、女のほうはポニーテールの似合う美人だ。
「へい、らっしゃい」
男は店内をキョロキョロ見回してメニューを見つけると、しばらくジッと眺めている。
「あ、空いている席へどうぞ」
「は、はあ」
「隼人、ここ座ろうよ」
「ああ」
二人はメニューを見てしばらく固まっている。きっと「何だ、この変なメニューは?」と思っているのだろう。
「あの~、すみません。ハンバーグってないんですか?」
「ああ、すみません。今日はちょっと切らしてまして。日によってうちのメニュー違うんですよ」
「そうなんですか…。じゃあ、カレー下さい」
「いや…、あのですね……。うちにはカレーはないんです……」
「え、だってメニューにカレーってあるじゃないですか?」
「ああ、あれは『魔女っ子風カレー』なんです。普通のカレーじゃないみたいなんですよ」
「……」
男は、僕の顔を不安そうに見たまま固まっている。
「ねえ隼人、別のお店へ行かない?」
「いや、それじゃ悪いよ。せっかく入ったんだからさ。な、泉」
「まあ隼人がそう言うんならいいけどさ……」
確かに普通の人なら、こんなメニューだけだと薄気味悪がるだろうな。
「じゃあ、『魔女っ子風カレー』下さい」
「わ、私も同じので……」
「へい!」
カレーの注文が一番簡単でいい。なんせ鍋から分量を取り出し暖めるだけでいいのだから。まだ二日酔いで頭がガンガンしていたが、一丁張り切ってみるか。使ったお金など、また頑張って貯めればいいさ。
客が徐々に集まりだした。タマはんは悪いと思ったのか、料金を払い出て行く。
しばらくして『月の石』のママであるパイナポーがやってきた。メニューを見て、ナポリタンがないので不服そうだ。
「ねえ、何でこの間の『究極パスタ』や『エキゾチックナポリタン』がないの?」
「いや、僕一人でやっているのでして、なかなかそこまで手が回らないんですよ」
「あのね、そんな事はどうだっていいの。何故ケチャップ風の料理がないのかって、私は聞いているのよ」
「無茶言わないで下さいよ~」
「ふん、私がイタリアンを気取るのが、そんなに面白くない訳、ん?」
「そんなんじゃないですって」
まったくこのババーは、妙にいつも絡んでくるな……。
「何で私があんたみたいな小坊主に、これだけしつこく言うか分かる?」
「いえ、分かりません……」
「それはね……」
途中まで言い掛け、パイナポーはいきなり僕に抱きつきだした。
「な、何をするんですか!」
「じ、実はね。好きなの。あなたが好きなの。いつの間にか激しく恋に落ちていたの」
六十過ぎたおばさんに、こんな事をされても全然嬉しくない。僕は必死に抵抗した。
「や、やめて下さい! 何をすんですか! は、離せっ!」
「私は純粋にあなたが好き。だからあなたも私を好きになってほしい」
「ふざけんな! 何だ、そのムチャクチャな理論は!」
パイナポーは気色悪い顔をグリグリと、僕の胸に押し付けてくる。懸命に顔を押して引っぺがそうとするが、吸いついたスッポンのようになかなか離れない。
「離せっ! 離しやがれっ!」
「む~ん、ジュテ~ム」
唇を突き出しながら僕の顔に迫ってくるパイナポー。下手なホラーよりリアルで怖い。
「や、やめろ!」
慌てて店内の客が引き剥がすまで、十分ぐらいの時間を要した。
みんなでパイナポーを店の外へ追い出し、ようやく平穏が訪れる。一体何なんだ、あの女は……。
僕は紙にマジックで『月の石ママ出入禁止』と大きく書き、入り口のドアへ貼った。
パイナポーを引き剥がす際、一番活躍してくれたカップルの男性が帰ろうとしたので、僕は慌てて言った。
「あ、あのさっきはすみません。本当に助かりました。ありがとうございます。お礼と言っちゃなんなんですけど、お代結構ですから」
「いえいえ、そういう訳にはいきませんよ。ねえ、泉」
「ええ、『魔女っ子カレー』、とてもおいしかったですよ。ちゃんと料理の味に見合った代金を払わせて下さい、じゃないと申し訳ないですから」
「え、でも……」
「また来ますよ。本当おいしかったですよ」
そう言ってカップルは正規の料金を払い、店をあとにした。ああいういい人たちばかりだったら、こっちも清々しい気分で仕事に臨めるのにな。
今なら誰にでも優しくできそうな気がする。そう思っていると、ボイン戦士新道貴子がやってきた。
「あっ!」
思わず指差してしまう僕。
「何が『あっ!』よ? 私は新道貴子だからね」
何故彼女はいつも自分の名前を名乗るか、不思議でしょうがない。
「知ってますよ、そのぐらい。何度も聞きましたから」
「そう、それならいいけど」
「今日はどうしたんです?」
「どうしたって、お店のれっこちゃんが、ここの料理本当においしいって言ってたから私、新道貴子がわざわざ食べに来たのよ」
そう言いながらご自慢の大きなボインを揺らす。前回は白コートの男と一緒に来て、ビールだけタダ飲みして帰ってくせに…。でもそんな事なんかどうでもいい。僕の目線はボインに釘付けだ。
「それはありがとうございます」
「さっきここへ来る途中、うちのママとすれ違ったけど、ひょっとしてここに来た?」
「え、ええ……」
先ほどの悪夢が蘇る。
「随分と寂しそうにトボトボ歩いていたから、声は掛けなかったんだけどね」
「そ、そうですか……」
貴子は店内をキョロキョロ見回す。
「でもここのメニュー、ほんと少ないよね?」
「ええ、あちらにあるだけでして……」
ママンにすべて仕込みを任せているから、僕から増やせとも言えないのが現状だ。
「変な名前のメニューばっかりねえ……」
「は、はあ」
「まあいいわ。ドラゴンちょうだいよ。ドラゴン」
お、初めて『アマゾン風究極ドラゴン』を頼む人が出た。内心食べた客の反応がどうなるのかワクワクしていたのだ。
僕はママンの書いてあるレシピ通りに料理を作った。まず皿の上に焼きおにぎりを置き、スープを掛ける。それから『シナチク』、『ネギ』、『卵』を順々に乗せ、ノリを置く。これで完成だが、こんな簡単な料理でいいのだろうか?
「お、お待たせしました。『アマゾン風究極ドラゴン』です……」
さてこれを見た…、いや、これを食べた新道貴子の感想が楽しみだ。
新道貴子はまずレンゲでスープをすくい、鼻先でクンクンと匂いを嗅いでいる。
「ん、これはちゃんとダシをとった本格的スープね……」
ブツブツ独り言を言いながら、貴子はスープを口の中へ入れた。それと同時に揺れ動くボイン。僕の視線はそこ一点に集中する。
「むう、これはアゴ……。アゴとは何か? アゴとはトビウオの背油を元に……」
誰に話す訳でもなく、解説つきで食べていた。『アゴ』と言いながらアゴを動かし、小刻みに揺れるボイン。僕のおチンチンはもうピンコ立ちだ。
「シナチクの固さ具合、固過ぎず柔らか過ぎず……」
その時、また客が入ってきた。ちぇ、いいところなのに……。
「あっ!」
その客を見て、思わず声が出てしまう。僕が一人で店をやった初日の最後に来たムチャクチャな男が入ってきたのだ。
この野郎……。
あの時はタダ食い、しかもソースがウスターだというだけで、僕の腿に膝蹴りなんぞしやがって、クソが……。
「あれ何だね。この店は客に『いらっしゃいませ』も言えないのかね?」
もくもまあぬけぬけと来れたものだ。今日は勝男とかいう連れはいないようだ。
「……」
「おいおい何を黙ってんだね、何を?」
こいつは自分のした事を忘れたというのだろうか?
「あの…、お客さん……」
僕が言い掛けた時、膝蹴り男は手で静止して勝手に喋りだした。
「実はだね、今日は俺の大事なステディも一緒に連れてきたんだよ。この間食べたここのハンバーグがとてもうまくてね。今日もまた食べに来てあげた訳なのだよ。おい、入って来いよ」
何が食べに来てあげただ…。思いっきり食い逃げしやがったくせに……。
膝蹴り男は、ごく普通の女の子を店内へ呼び寄せる。自分の行きつけの店みたいな態度を取りやがって、この理不尽大魔王め。
「……!」
待てよ…。なかなかいいお返しのアイデアが浮かび上がってきた。
ここは一つ大人になって冷静な対応をすればいい。この男をギャフンと言わせてみたかった。
ビールだとママンにチェックされて、また給料から天引きされちゃうしな。あ、そうか。烏龍茶なら大丈夫だ。
厨房の冷蔵庫に僕用として烏龍茶の飲みかけがあったっけ、ふひひ……。
「あ、お客さん。可愛い彼女さんもいらしてくれた事だし、ここは僕、烏龍茶でもサービスしましょう」
「お、気が利くね~。あんた、出世するぞ?」
こんな無職男にそんな事言われたって、まったく嬉しくない。それでも僕は満面の笑みを浮かべ、厨房へ向かった。
グラスを二つ用意し、烏龍茶を注ぐ。僕は店内を見回し、誰もこっちを見ていないのを確認すると、チャックを開けおチンチンを出す。
膝蹴り男へ出す烏龍茶の中におチンチンを入れ、軽く掻き回した。氷のせいでかなり冷たく厳しい作業であったが、ここは我慢するしかない。
臥薪嘗胆(がしんしょうたん)という言葉があるが、これは復讐の為に耐え忍ぶ事をいう。または成功を収める為に苦労を耐えるという意味合いだ。
今のこの行為はまさに臥薪嘗胆である。
中国の故事成語であるけど、我が日本も明治時代に下関条約の三国干渉が発生した時、ロシアに復讐する為に耐えようという機運を表す時に使ったスローガンでもある。
僕は学校の成績がよくなかったけど、こういう変な事だけは知っているのだ。
「臥薪嘗胆! 臥薪嘗胆!」
心の中で叫びながら、僕は烏龍茶の中にある氷の冷たさに耐え、復讐を誓う。
「く~、つめた……」
思わず声が出てしまう。耐えろ、耐え忍ぶのだ、努。僕は自分へ必死に言い聞かせた。
よし、このぐらいでいいだろう。僕は烏龍茶をお盆に乗せ、膝蹴り男の席へ持っていった。
「どうぞ、良かったらサービスです」
「おう、どうもな」
「す、すみませんね」
横柄な膝蹴り男とは逆に礼儀正しい彼女。ここは例の烏龍茶を置き間違えては絶対にいけない。
「あー、ズルい! 私にはサービスないのー?」
カウンター席に座ってその様子を見ていた新道貴子が、不服そうに声を掛けてくる。
「あ、もちろん出しますよ」
「じゃあ良かったら、先にこれ飲みなよ」
膝蹴り男が余計な行動をしだした。冗談じゃない。その烏龍茶を渡されたら、何の意味もなくなるだろうが。
「いえいえ、大丈夫ですよ。すぐに持っていきますから。冷たい内にお召し上がり下さい」
「ん、そうかそうか。ちょうど私は喉が渇ききっていたのだよ、ハハハ……」
やった! 僕のおチンチンをマドラー代わりに掻き回した烏龍茶。それを一気に飲み干しやがった。ザマーミロ、くくく……。
「よろしければご注文は?」
「もちろん目玉焼きセットでしょ?」
膝蹴り男の彼女が、身を乗り出して聞いてくる。
「え、俺は別のを頼みたいなあ」
「またそんな事言って、ソース掛けて食べるつもりなんでしょ?」
「別にいいじゃねえか。俺が何を食ったってよ」
「よくないわよ。いつもそうやって自分を誤魔化し続け、男として恥ずかしくないの?」
何だ何だ? この彼女は……。
「何で目玉焼きごときで、そんな言われ方しなきゃいけねえんだよ?」
あの膝蹴り男が口論で圧倒されている。そういえば前回もソースがウスターか中濃かで、グチグチ言っていたけど、とても神経質な奴なのかもしれない。
「ご、ご注文は目玉焼きセット二つでいいですか?」
「ええ、それでお願いします」
「おい、ちょっと! 何を勝手に決めてんだよ?」
「いいからそれを持って来て下さい」
「おい、ふざけんじゃねえぞ」
関わるとロクな目に遭わないだろう。僕はさっさと厨房へ引っ込み、目玉焼きを作る事にした。
新道貴子へ普通の烏龍茶を出すと、僕は火をつけフライパンを置く。
特別あの理不尽男の目玉焼きには、また僕の『聖なる唾』を垂らしてやろうじゃないか。まずはあの気の強そうな彼女の分を普通に作ってと……。
続いて膝蹴り男のだ。僕は客に見られないよう細心の注意を払いながら、『聖なる唾』をフライパンへ落とした。
いい感じで僕の『聖なる唾』はジュワッと弾け飛ぶ。
今日は中濃ソースだって用意してある。あの男、完全に僕の目玉焼きを食べるだろう。膝蹴りカップルへ『目玉焼きセット』を持っていく。
「お待たせしました」
「待ってたわよ」
そう言うなり、彼女はいきなり膝蹴り男の目玉焼きに醤油をドバドバ掛けだした。
「テメー、何をしやがんだよ??」
「ふん、いいから一度醤油で食べてみなさいよ。おいしいんだから」
「ふざけんな。目玉焼きはソースって決まってんだよ!」
「卵ご飯には醤油を掛けてるじゃないの。何でそんな矛盾しまくっている訳?」
「いいじゃねえか、そんなこたー」
「よくないわよ」
「冗談じゃねえっつうの」
「じゃあ、勝手にしたら? 私、帰るから」
「何でそうなるんだよ?」
膝蹴りカップルがクソミソの喧嘩をしだした。本当迷惑な客だな……。
新道貴子が不思議そうに見つめながら席を立つ。
「ご馳走さま。いくら? あなたも色々大変ね……」
僕の耳元で、貴子が小声で囁いてきた。その時、大きなボインが僕の肩口を軽くかする。もうおチンチンピンコ立ち。
「あ、ドラゴンだから千五百円です」
「あ、ねえねえ」
「何ですか?」
「タダにしてくれるならさ。『新道貴子ボインタッチポイントカード』の捺印押してあげるけど?」
「な、何個ですか……?」
「う~ん、今五つでしょ? じゃあ三つ押しちゃうよ」
「ほ、ほんとっすか?」
「嘘言ってもしょうがないでしょ。こういうのはその場のノリってあるから」
「じゃあ、自腹で千五百円埋めておきやす!」
「では、カード貸しなさい」
貴子が三つ捺印を押してくれた。これで残り二つ。あと二つでボインにタッチ……。
「今度、パパンのお見舞いに行った時、貴子さんに会ったらジュース奢るのでまた捺印いいですか?」
「うん、いいよー。あと二つだからもうちょっとだね」
「やったぁ~」
僕が大はしゃぎしていると、いつの間にか横に膝蹴り男が立っていた。
「何々…、そのカードに十個押してもらうと、このボインちゃんのおっぱい揉み放題なのか? すげーいいもん持ってるじゃねえかよ。よこせっ!」
「あっ!」
膝蹴り男が不意に僕の大事な『新道貴子ボインタッチポイントカード』を取り上げた。
「姉ちゃんもいい乳しやがってからに」
そう言って膝蹴り男は、貴子のボインをワシ掴みする。
「やだ~!」
嫌がる貴子。見ず知らずの男にそんな事をされれば当たり前か…。その瞬間、膝蹴り男はダッシュで店から逃げ出した。また食い逃げか? 僕は奴のいたテーブルを振り返る。
「あ、奴の彼女までいつの間にかいない!」
こうして僕はあの男に二回も食い逃げをやられ、おまけにカードまで取られてしまった。今度からあの男は出入禁止だ。まったくとんでもない奴である。
「私、捺印ちゃんと押したからね」
そう言いながら新道貴子も、当然のように金も払わず威風堂々と帰っていった。
臥薪嘗胆についてはサラリーマンのSFCG時代、上司の佐久間がこの言葉の意味を聞いてきたエピソードから思いついたものだ。
そういえば佐久間は俺の試合見に来たあと、SFCGを退職して北海道へ戻ると言っていたが、今頃家族でのんびり暮らしているのかな……。
まああんな国会で政治家に目をつけられるような会社など、一部上場企業だとしても良くない。
辞めて正解だと思う。
それにしても八章目にして、とうとう処女作『新宿クレッシェンド』の主人公赤崎隼人とヒロインの泉を出せた。
泉は高校時代初デートした相手、永井泉の名前を勝手に使っている。
作中の性格も加味しながら自然と出演させた。
これはこれで、書いていて非常に面白い。
続いて二度目の登場となるチャブーの分身である膝蹴り男。
今回は『でっぱり』の勝男とのコンビではなく、濃くてキツい性格の彼女も出してみる。
俺の作品を全部読んでいる読者は、思わずニヤリとするはずだ。
うん、何か永井豪の『バイオレンスジャック』っぽくなってきたようで嬉しい。
まあ本家の場合、出て来るキャラクターが全部全国区だもんな……。
俺とはまったく比べ物にならない。
『マジンガーZ』に『グレートマジンガー』。
さらに『あばしり一家』に『キューティーハニー』。
『どろろんえん魔くん』に『ハレンチ学園』。
『魔王ダンテ』に『凄ノ王』、挙句の果てに『まぼろしパンティ』まで。
『ズバ蛮』は悪の魔王スラムキングの息子役になっているし『デビルマン』まで入っているんだもんな……。
昔月間マガジンで連載していた『骨法伝説 夢必殺拳』まで、終盤のいいことろで出しているし。
個人的なお気に入りは『ガクエン退屈男』の早乙女門土だった。
まあこの作品が万が一世に出る事になったら、俺は絶対に永井豪先生の『バイオレンスジャック』を意識しましたと答えるだろうな。
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