岩上智一郎の作品部屋(小説・絵・漫画・料理等)

著書:新宿クレッシェンド

自身の頭で考えず、何となく流れに沿って楽な方を選択すると、地獄を見ます

4 鬼畜道~天使の羽を持つ子~(一章 幼少編)

2019年08月01日 18時35分00秒 | 鬼畜道~天使の羽を持つ子~(一章 幼少編)


 日曜日になると、おばさんであるユーちゃんは近所のデパートに連れて行ってくれた。僕だけじゃなく、弟二人も一緒にである。僕たちの目が五階のレストランのショーウィンドーに止まると、おばさんはその場に立ち止まった。
「何が食べたい?」
「い、いいの……?」
「何、遠慮してんの。どれがいい?」
 おばさんは僕ら兄弟にショーウィンドーを指差して、ニッコリ笑った。ガラスの中で飾られた食べ物の見本は、どれもこれもすべておいしそうに感じる。
 青い車の形をしたお皿の上へ、豪華に盛り付けられたお子様ランチ。
 フォークが宙にパスタを巻いた状態で浮かぶミートソース。
 にんじんとフライドポテトが添えられたハンバーグ。
 鉄板の上で盛り付けられた焼きそば。
 前にせっちゃんに連れられご馳走になったのと同じクリームソーダ。
 厚く切ったパンの耳までチーズが垂れ下がっているピザトースト。
 こんがりと焼けたグラタン。
 どれを見ても目移りしてしまう。龍也も同じようにショーウィンドーに顔をくっつけて、ボーっと眺めている。家で出てくる食事とは違ったタイプのメニューは、見ているだけで楽しませてくれた。
 いつもその場所をママと通り過ぎるだけだった僕。
 こんなにゆっくりと、目の前で見られるだけで幸せだった。
「好きなもの食べていいのよ」
 おばさんは笑いながら僕たちに言った。つい僕は飾られた料理の見本の下にある金額を見てしまう。

 お子様ランチは六百円。ミートソースは五百円。メロンソーダは三百円。ピザトーストは三百五十円…。どれも僕のお小遣いでは食べられないものばかりだ。
「私も見てて、お腹減っちゃったよ」
「う、うん……」
「どれがいい?」
「ピ、ピザトースト……」
「龍也は?」
「お子様ランチ」
「はいはい」
 素直にお子様ランチを頼める龍也が羨ましかった。僕は値段を気にして、ピザトーストにしてしまった。
「あー」
「はいはい、龍彦は私と一緒に食べようね」
 中に入ると、色々な家族がテーブルに座っている。賑やかで楽しそうな空間。初めてその空間を目にした僕は自然と笑顔になった。
 窓際の席に案内され席につくと、龍也は窓の外をジッと眺めていた。窓から見える景色。同じ町並みが違った場所に見える。
 運ばれてきたピザトーストはとてもおいしそうだった。見本など比べ物にならないほど光り輝いて見えた。龍也の頼んだお子様ランチが目につく。チキンライスの上に刺さったアメリカの国旗が印象的だった。龍也はおまけに車のおもちゃを店からプレゼントされ、満足そうに嬉しがっている。
 僕もお子様ランチにすれば良かった。素直にいえなかった自分を恨めしく思う。
「龍一、冷めちゃうよ。早く食べなよ」
「うん……」
 一口齧ってみる。チーズは熱で長く伸び、出来る限り伸ばそうとした。それだけで僕はお子様ランチの事など忘れ夢中なった。喫茶店のピザトーストとは、一味違うおいしさだった。僕の食べっぷりをユーちゃんは、目を細めて眺めていた。

 家の目の前の映画館で、松本清張原作『鬼畜』が放映された。
 不思議と自分の家の近くで撮影があったので、この映画だけは幼心ながら鮮明に覚えている。
 この映画を初めて見に行った時、自分達の環境と重なるものがあり、最後には涙を流している自分がいた。
 映画の内容は、確かこんな感じであった。
 主役の男が妻と子供三人を残し、出稼ぎに出る。勤め先で新しい女性と関係を持った男は、籍を入れた形で一緒に住んでいた。いつの間にか仕送りも途絶え何も知らない元妻は、子供三人連れで職場まで押し掛ける。
 修羅場となった職場。二人の女はどちらも譲らず、押し掛けた元妻は子供三人を置いて消息を絶つ。
 夜、それに気づいた男は慌てて外に飛び出すが、姿は見えなかった。
 このシーンの時に、僕はママと一緒に撮影現場を見ていたのだ。
 子供三人もいたとは知らなかった現妻は、烈火の如く怒りを男へぶつける。出て行った元妻を探すも見つからず、とうとうその職場で奇妙な共同生活が始まった。
 我が子なので、どうしても放って置けない男。一緒に住んでいた妻は激しく憎悪を燃やし始める。
 一番下の男の子は、ある日ご飯の入った釜にいたずらで醤油をかけて遊んでいた。まだ二、三歳ぐらいなので仕方ない。そこを妻に見つかり、「ふざけやがって、食ってみろ!」と強引に口の中へ飯を詰め込んだ。
 僕と同じ三兄弟。末っ子の龍彦とほぼ変わらないぐらいの子の虐待シーンは、見ていて吐き気がする。
 それから妻の血の繋がらない子供三人への鬼畜な行為が始まった。
 一番下の子は、寝ている最中シーツが顔にかぶり、窒息死してしまう。見ているだけではそれが自然でなってしまったものなのか、もしくは現妻が意図的にした行為なのかは分からない。
 二番目の女の子は東京タワーに置いてきぼり。置き去りにする前に、食堂で「父ちゃんの名前分かるか?」と聞き、「父ちゃんは父ちゃんだよ」と苗字も分からないのを確認してからの置き去り行為であった。しかし妙な違和感がある。東京タワーのレストランで食事をという設定なのだろうが、地元にいる僕にはすぐ違いが分かった。おばさんのユーちゃんが連れていってくれたデパートのレストランそのものだったからだ。この時、映画でも嘘をつく事はあるんだなあと不思議に感じた。
 そして残り一人、長男の男の子。僕と同じ年ぐらい。
 妻は男に殺せと促した。
 動物園に連れて行かれ、青酸カリ入りのアンパンを食べさせられそうになったが、変な味がすると危険を回避する。強引に食わせようとする父親。たまたま通行人が通り掛かり、現実へと引き戻された。
 男は長男と旅行へ行く。昔話をしている内に寝てしまう長男。男は無情にも長男を崖から落としてしまう。
 無事三人の重荷をなくした夫婦に、ある日警察の調査が入った。
 長男だけは、運良く崖の途中にあった木の枝に引っ掛かり、命は助かっていたのである。
 警察署へ連行された男は、長男を目の前に出され、「これは君のお父さんかい?」と問いただす。幼い長男は自分の父親だと言えば捕まってしまうと分かり、「違うよ。知らない人だよ」と懸命にかばう。自分が殺され掛けたのに、けなげ我が父をかばう長男。
 男は自分の子を人目はばからず、抱きしめ号泣するというお話だった。
 同じ三兄弟。
 鬼畜のような親。
 どこか自分たち兄弟と重なり合う部分が多かった。そして鬼畜のような現妻に、ママの姿を連想された。
 いつも遊んでいる場所が、映画にも出てきて不思議な気分だった。
 この映画の兄弟に比べたら、まだまだ僕らは幸せなのかもしれない。
 何故なら、鬼畜のようなママは家を出て行き、今はいない。
 捨てられる事も、殺されるような事も、ないのだから……。

 僕は、小学校三年生を迎えた。
 出て行ったママの印象。
 ヒステリーで、恐ろしかった。
 過去、優しくされた事などいっぱいあったはずなのに、思い出すのは恐怖な出来事ばかりで、鬼のような形相のママしか思い出せない。
 新しく学校生活を楽しく送りたい。もう、怖いママは家にいないのだ。
 自分自身、変わりたかった。
 二年生の冬にママが家を出て、自由になった僕は開放感に満ち溢れ、その自由を少し履き違えていた。
 新しいクラス、新しい先生。クラスメイトも、かなり顔ぶれが違うというのもあって、自分の感情を表に出し始めた。強めに発言すると、ほとんどのクラスの生徒たちは僕の言う事を聞いてくれる。男と女は違うと感じたのもこの頃であった。
 弟の龍也も小学一年生として、同じ学校に入学してきた。不安と希望でいっぱいなのだろう。心細そうな表情で僕の手を握ってくる。
 学校から帰ると、龍也は少し興奮気味にクラスメイトの事や先生の事を話した。
 隣の食堂の和ちゃんは中学に行き、妹の良子ちゃんと同じ登校班になった。二歳年上の良子ちゃんは和ちゃんがいなくなると、前よりお姉さんぶって接しているように見えた。
 朝、集合場所へ向かおうと龍也と一緒に家を出ると、隣からタイミングよく良子ちゃんが出てきた。
「良子ちゃん、おはよー」
「龍ちゃん、ちゃんとしっかり帽子をかぶりなさいよ。龍也ちゃんだって、いるんだからお兄さんらしくしないとね」
 弟の前でいきなり口うるさく言われ、僕はカッと頭に血がのぼった。
「ちゃんとかぶってるよ」
「私は五年生で班の副班長になったのよ。ちゃんと私の行動に従ってね。いい?」
 急に年上ぶる良子ちゃんの態度に、僕はイライラした。
「うるさいな、和ちゃんがいた時は、喋るの苦手だったくせに…。急にえばるなよ」
「別にえばってないよ。私は副班長として、ちゃんとするように言ってるの」
「ふん」
「何よ、その態度は…。前にあなたがデパートでウンチを漏らした事、みんなに言いつけるわよ。いいの?」
「え、お兄ちゃん、ウンチ漏らしたの?」
 僕は顔が真っ赤になった。この女、あの時の事をまだ覚えてやがった。龍也は不思議そうに僕を見ている。
 このままでは兄として、威厳が保てない。
 少しうろたえたが、すぐに冷静になる。考えてみれば、あの時は誰がウンチを漏らしたのかちゃんと調べていない。和ちゃんが家に帰って良子ちゃんだけお尻の臭いを嗅いだとは思えない。
「あれは僕じゃないよ」
 このまま誤魔化してやればいい。
「何、言ってんの。あなたしかいないじゃない」
「ふん、漏らしたのは良子ちゃんじゃないか」
「私じゃない。ふん、みんなに言ってやるから」
 普段物静かな良子ちゃんは金切り声をあげた。あの無表情な良子ちゃんがヒステリックになるとは…。それでも、ママと比べるとまったく怖くない。
 僕は集合場所についたら一泡吹かせてやろうと思った。自然と顔がニヤけてくる。横で龍也が不思議そうな様子で僕を眺めていた。
「おはよう」
「おはよー」
 最初の余裕はどこにいったものやら、良子ちゃんは挨拶も班員にしない。この時を僕はチャンスと感じた。
「みんな、聞いてよ。この間、良子ちゃんってデパートで、うんち漏らしたんだよ。良子ちゃん、臭いよ。臭い、臭い……」
「うんち漏らした。うんち漏らした。くちゃい。」
 龍也まで僕の真似をして同じ事を言い出した。ナイスな兄弟タッグだった。
 みんなの前でいきなり切り出された良子ちゃんは、かなり動揺している。
「ち、違う…。私じゃ……」
「ほら、顔が真っ赤になったでしょ? 絶対にほんとだよ」
「……」
 トマトのように真っ赤な顔で立ち尽くす良子ちゃん。下を向いて涙をためていた。本当は僕がしたのをうまくなすりつけられたなのに…。班員はみんな、大笑いしていた。
「臭いよ、良子ちゃん」
 さらに僕は繰り返し責めた。良子ちゃんはとうとう泣き出してしまう。
 やり過ぎたかな。女の涙を見た僕は、少し後悔する。無言で家の方向へ帰る良子ちゃん。後ろ姿を見て、可哀相に感じた。
「やり過ぎじゃないの?」
 パン屋の太郎ちゃんが僕にこっそり話してくる。
「う、うん…。そうかも……」
 登校の為に集まっているみんなは誰一人、口を開かなかった。重苦しい嫌な沈黙だ。さすがに僕も反省した。良子ちゃんの気持ちをもっと考えてやんないと……。
 彼女はそれから一週間、学校を休んだ。僕はなかなか謝りにも行けず、心の中が常にモヤモヤしていた。

 いつも遊び場となっている家の近くの連繋寺。
 今日はパン屋の太郎ちゃんと一緒に遊んでいた。お小遣いをもらってあるので、大きなテントのようなものの中で作っている焼きそばを食べる。キャベツと挽肉ぐらいしか入っていないけど、麺が太くとても変わった焼きそばだった。
 このお寺は何故か映画『鬼畜』の中でも映っているが『ピープルランド』というデパートの屋上にあるゲームセンターような感じの施設がある。子供が乗るおもちゃの汽車もあって、もっと僕が小さい頃はその汽車に本物のお猿さんが乗っていた事もある。姿が伸びたり、縮んだりする変な鏡もあっていつもみんなが集まる面白い遊び場だった。
 ここの家も男三兄弟で、真ん中の子と僕は同級生。そういえば一緒にいる太郎ちゃんも三兄弟。でも彼の家は一番下が妹だから、偽者の三兄弟だ。
 焼きそばを食べて残ったお金でインベーダーをプレイしたり、駄菓子を買ったりする。太郎ちゃんは雑誌の半分ぐらいの大きさの紙を買い、その紙を千切っては口の中に入れ、「ペッ」と吐き出していた。
「何それ?」
「甘い紙」
「お菓子?」
「多分そうでしょ、売っているんだから。ちょっと食べてみ」
「ありがとう」
 太郎ちゃんの持つ甘い紙を少しだけ千切り、口の中へ入れる。確かに甘いが、すぐにただの紙だけになってしまう。何だか気持ち悪くなり、僕も「ペッ」と吐き出した。
 この『ピープルランド』の中は、駄菓子以外にくじ引きや小さなカップラーメンも売っていた。太郎ちゃんはさっき焼きそばを食べたばかりなのに、四角いカップラーメンを買い、お湯を入れてもらっている。楽しそうにテーブルの上でニコニコ待つ太郎ちゃん。僕も前の椅子に座り、ラーメンができるのを待った。
「おいしそうな匂いじゃない」
 声のする方向を振り向くと、馬みたいに鼻の穴が大きい女が立っていた。僕らよりもちょっと年上みたいだ。馬の鼻のような女は、「ちょっと匂い嗅がせてよ」と太郎ちゃんのカップラーメンに鼻を近づけ、クンクン嗅いでいる。何か嫌な人だ。
「ねえ、太郎ちゃんの知っている人?」
 僕は小声で囁く。
「ううん…、全然知らない人」
 時間が経ちラーメンができあがると、フタを外しテーブルの上に置く。プラスチックの小さなフォークで食べようとした太郎ちゃんに、馬の鼻のような女が声をまた掛けてきた。
「ねえ、ちょっと私にもちょうだいよ」
「え…、だって僕の……」
「そんなケチケチしなくてもいいでしょ? ほら、このフタの上にちょっとラーメンを乗せてよ。じゃないと頭をぶつよ?」
「わ、分かったよ……」
 太郎ちゃんは泣きそうな顔でラーメンをフォークですくい、フタの上に乗せた。女は「ズズズ」とフタに口をつけてラーメンを啜る。あまりにも気持ち悪かったので僕は女をつっぺして、「太郎ちゃん、逃げよう」と手を引っ張る。
「あ、待ちなさいよ?」
 女が僕たちを追い駆けてくるので、必死に『ピープルランド』から外へ逃げた。お寺の境内の中を走り回り、ブランコの方向へ向かう。チラッと後ろを振り返ると、馬女は太郎ちゃんが買ったラーメンを持ちながらあとをつけてくる。
「待ちなさいよ? このラーメン捨てちゃうよ?」
 その言葉で太郎ちゃんの足がとまる。まだ一口も食べていないから、惜しいのだろう。
「あんたたちさ、家はどこなの?」
「言いたくない……」
 僕がそう言うと、馬女は頭を叩いてきた。何て乱暴な女なんだろう……。
「ちょっとそこのベンチに座りなさいよ。お姉さんが面白い話をしてあげるから。このラーメンをもらったお礼にね」
「え、別にラーメンなんてあげていないよ」
 太郎ちゃんが泣きそうに言うと、今度は彼の頭まで叩いてくる。
「うるさいっ! いいから私の話を聞きな」
 こいつ、馬女なんてもんじゃない。凶暴馬だ……。
「分かったからぶつのはやめてよ……」
「うん、大人しく聞きなさいよ? あんたたちは『ジョルジョおばさん』っていう話を聞いた事あるかい?」
「ジョルジョおばさん? 知らない。太郎ちゃんは?」
「ぼ、僕も知らないよ」
「では私が聞かせてあげようじゃないか」
 そう言いながら馬女は、ラーメンを一口啜ってから喋り出した。
「あ、そうか。ラーメンもらったお礼をしなきゃね」
「え、ぼ、僕はあげてないよ……」と泣きそうな太郎ちゃんを無視して、馬女はポケットから、あんこの入った小さいドーナツを取り出した。あんなところに入れるなんて不潔だなと感じる。
「ほら、あんたたちにあげるよ、これ」
「え、いらないよ……」
「食わないとまたぶつよ?」
 仕方なく受け取る僕たち。嫌だったけど、口にドーナツを持っていく。
「駅にあるタンツボを知っているかい? まああんたたちは駅なんか、親と一緒に出掛けない限り利用なんかしないか。タンツボって言うのはね、大人がタンを吐き捨てるツボの事なんだよ」
「大人の人が『ガー、ペッ』ってツバを捨てるやつ?」
「そうそう、それがタンだね。そのタンがいっぱい詰まったツボにさ、ストローを差し込んで『ジョルジョ』って音を立てながら素早く飲んでしまうおばさんがいるのさ。それが『ジョルジョおばさん』って巷じゃ呼ばれているらしいんだ」
 ドーナツを食べている時に、何て気持ち悪い話をするのだろうか……。
「も、もう僕、このお菓子いらない……」
 太郎ちゃんは投げ捨てるようにドーナツを放り投げた。
「おい、躾のなってないクソガキだね。ちゃんと出されたものはキチンと食べろ」
「だってお姉さんが気持ち悪い話をするんだもん。もう食べたくないよ」
「駄目だ。食べなっ!」
「いらないよ」
「いいから食えって言ってんだよ」
 馬女は道路に落ちたドーナツをつかみ、強引に太郎ちゃんの口へ持っていく。
「い、嫌だっ!」
 必死に抵抗する太郎ちゃん。口の周りがアンコでいっぱいになっている。気付けば僕は馬女をつき飛ばし、太郎ちゃんの手を引いて逃げ出した。
「待ちやがれ、このガキ共っ!」
 背後から怒声が聞こえる。だけど止まる訳にはいかない。捕まったら何をされるか分からない。運動会の時より懸命に僕たちは全力で走った。

 ブランコの近くにあるベンチに作業服を着たおじさんがいて、僕たちに近づいてきた。そして両手を広げ、とうせんぼしてくる。このおじさん、何をしているんだよ? 馬女に捕まっちゃうじゃないか。
「ぼうやたち、落ち着いて。おじさんがあの子を注意してあげるから」
「ほんと?」
「ああ、もう大丈夫だよ」
 そう言っておじさんはニコリと微笑む。馬女が息をゼイゼイ言いながら来ると、作業着のおじさんは「小さい子供たちを苛めちゃ駄目だよ」と注意してくれた。
「お、覚えてらっしゃい……」
 何を覚えるのか分からないけど、馬女はこっちを睨んでから去っていく。右手にはラーメンを持っていて、歩きながらスープを飲んでいた。だいたい向こうから声を掛けてきて、太郎ちゃんのラーメンを奪ったくせに、何であんなに怒るのだろう。どっちにしてもこのおじさんに、僕たちは助けられたんだ。
「おじさん、ありがとう」
「助かったよ、おじさん」
 僕と太郎ちゃんは頭を下げてお礼を言う。
「いいんだ、いいんだ。それよりそっちの子、口の周りが汚れているぞ? ちょっとこのベンチに座りなさい」
 言われた通り太郎ちゃんが腰掛けると、おじさんは妙に薄汚れたハンカチをポケットから取り出し、「ペッ」っとツバを吐き掛けた。そしてそのまま口を吹き出す。
 太郎ちゃんは嫌そうな顔をしながらも、ツバのついたハンカチでおとなしく口を拭いてもらっている。
「ぼうやたちの手ってちっちゃいなあ~、ちょっとおじさんの手を握ってみ」
 さっきのツバのついた手を触るのが嫌だったので、ついおじさんの手を握るのを躊躇ってしまう。太郎ちゃんは強引に手を握られ、今にも泣きそうな表情で必死にこらえていた。
 何かこの人も変だぞ? おじさんの目つきを見て、そう感じた。
 太郎ちゃんの手を両手でこねるように触るおじさん。
「ぼうやの手って、本当にスベスベだなあ~」
「お、おじさん、もういいでしょ?」
「いいから、いいから」
 手をおじさんはなかなか離そうとしない。
 そういえばさっきの馬女、本当に行っちゃったのかな……。
 少し不安になり、境内の中を色々見回した。参拝客や赤ちゃんを抱っこしたお母さんが何人か歩いているぐらいで、馬女の姿は見えない。良かった。
 連繋寺の中にあるしょうゆ味のだんご屋『名代焼き松山』の看板が見える。さっき太郎ちゃん、ラーメン食べそこねちゃったから、だんごでも奢ってあげようかな。
「太郎ちゃん、だんご……」
 振り向きながら話し掛けると、途中で声がとまってしまう。何故か太郎ちゃんは泣いていた。
 何で急に泣いているんだろう? 僕は太郎ちゃんをジッと見たあと、作業着のおじさんのほうも見てみた。
「あっ!」
 泣いている太郎ちゃんの手を強引に自分の股のほうへ持っていきながら、おじさんはズボンからチンチンを出して先っちょをいじらせている。このおじさん、汚いなあ……。
 僕は二人に近づき、おじさんのチンチンを思わず蹴飛ばしていた。
「あーっ……」
 チンチンを押さえながら、おじさんは地面に座り込む。僕は怖くなって太郎ちゃんの手をつかむと、「逃げよ」と一緒に走り出した。

 クラスで乱暴者として、みんなから恐れられている神谷という男子がいた。
 この神谷君は自分が気に入らないと、すぐに同級生をグーで殴った。女子もかまわずにだ。
 一、二年生から同じクラスだった神谷君。少し彼はませていた。僕に「なあ、神威君よ。俺さ、あいつの事好きなんだよな」と平然と言う。そういった感情のない僕は「ふーん、そうなんだ」ぐらいしか言えない。「ちょっと見てろよ」と神谷君は言うと、その子の背後に近づきいきなり髪の毛をつかんだ。そしてそのままキスをしたのである。その子にとってはおそらくファーストキスだったんじゃないだろうか。泣きながら神谷君の頬を叩いていた。恐るべし男である。
 ある日、僕は神谷君ともの凄い抗争になる。最初は些細な事だった。
「神威」
「なーに」
 前まで君付けで呼んでいたくせに、何で呼びつけになるんだろう。イライラを感じたが、僕はとりあえずそう答えた。
「神威がよー、持っている鉛筆さあ。あの銀色の格好いい鉛筆あるだろ?」
「それがどうしたの?」
「あれ、俺にちょうだいよ」
「何でだよ?」
「俺が気に入ったからだよ」
「何でそんな理由で、いちいち神谷君にあげなきゃいけないんだよ」
「口答えするなよ。殴るぞ」
 神谷君の理不尽な要求。クラスのみんなが奏でる雑音は次第に静かになり、僕たちを注目していた。
「ふん、できるもんならやってみろよ」
 僕は精一杯強がった。神谷君はクラスで一番背が高く、内心は怖くてたまらなかった。でも、みんなの見ている前なので引く訳にはいかない。
「そうかよ」
 神谷君のパンチが僕の顔にヒットした。床に倒れる僕。体を丸めつつ、顔を押さえた。指の隙間から見える教室内。
 その時、神谷君の上履きが目の前に見えた。
 その上履きが視界からゆっくり遠ざかると、すぐに僕の顔面に向かってつま先が飛んでくる。
「キャー」
 女子の悲鳴が聞こえた。僕は目から火花が散り悲鳴を上げる。倒れているところを顔目掛けて蹴飛ばされたのだ。激しい痛みからか、僕の視界は狭まったように見える。
 ママに振るわれた数々の暴力が頭の中に投影された。
 ずっと暴力に屈してきた僕。ここで泣いたら、学校でも卑屈な生活を送るようになってしまう。やらなきゃ、こっちがやられる……。
「うわぁー!」
 僕は片手で目を押さえたまま、無我夢中で神谷君に突進した。
 不意をつかれた神谷君は床に倒れ、僕はその上に乗っかる。気づけば馬乗りのような格好になっていた。
 テーブルの上に置いてあった大和のりのチューブタイプが目に入る。迷わず僕は、のりを手に持ち、神谷君の片目をこじ開け、チューブを絞り上げた。
「あ~、目、目がぁ~!」
 神谷君の右目は、乳白色の大和のりで塞がれていた。
 クラス中で悲鳴がこだまする。
 何も気にならなかった。
 やらなきゃ、僕がやられる…。頭の中はそれだけだった。
 あまり見えない視界の中、構わず何度も神谷君の顔や頭を殴った。泣きながら無差別に殴った。これが初めて振るった暴力でもあった。あとの事はハッキリ覚えていない。
 クラスメイトに聞くと、先生に止められるまでその状態だったらしい。
 この件で、僕も乱暴者としてクラスで認知されるようになった。先生はこの件で僕たち二人を職員室に呼び出し、真っ赤な顔で怒っていた。でも怒るだけで、親とかには知らせないでいてくれた。
 躊躇もせず目の中へ、のりをぶちまけた男。しばらく僕にはそんなレッテルが貼られた。

 良子ちゃんが再び登校してくるようになった。集合場所に向かう途中、バッタリ会った僕は素直に謝る事にする。
「良子ちゃん、この間はごめんなさい…。ほら、龍也も一緒に……」
「ごめんなさい」
 僕たち兄弟の言葉を聞き、良子ちゃんは冷たい視線でこっちを見る。
「ふん、冗談じゃないわよ。人に責任なすりつけて。漏らしたのは、龍ちゃんでしょ」
 まだこいつ、ウンチ漏らした事を言うのか。僕はイライラしてきた。
「僕は漏らしてなんかないよ」
「あなたしかいないでしょ?」
「やってない」
「今日、みんなにちゃんと言うわ。あなたがデパートでウンチ漏らした事」
「ふざけんなよ」
 僕はつい手が出てしまった。しつこくウンチネタを言う良子ちゃんの頭を気がつけば、叩いていた。
「やったわね……」
 僕らは取っ組み合いの喧嘩になった。横で龍也は不安そうに見ている。二歳離れていても、僕のほうが男なんだという気持ちだ強かった。良子ちゃんは、必死な形相で襲ってきたが、僕はひるまずに戦う。お尻を蹴飛ばすと泣き出した。背中を見せたので、僕は飛び膝蹴りをぶち込んだ。良子ちゃんは泣きながら家に戻っていった。
「勝った」
「お兄ちゃん勝った」
「いぇー」
「わー」
 二人で勝利を喜び合った。それでも僕が以前デパートで、ウンチを漏らしたという事実はなくならない。
 あの女め…、僕は良子ちゃんが入った扉を睨みつけた。すると扉が勢いよく開き、良子ちゃんの泣き顔が見えた。彼女の目は釣りあがり、僕を見ている。
「……」
 無言のまま、良子ちゃんは出てきた。右手には包丁を持っている。
「龍ちゃん…、覚悟しなさいよ」
 冷静な冷たい声で良子ちゃんは静かに口を開いた。包丁が一瞬、キラリと光る。僕は体が震えた。良子ちゃんが動き出した瞬間、僕と龍也は慌てて家に逃げ込んだ。

 この頃学校ではドッジボールが流行っていて、休み時間や放課後になると、いつもみんなでグランドへ出て遊んだ。適度な場所と、バレーボールが一つあればできるものなので、スペースがあればどこでも僕らはドッジボールに熱中した。
 家に帰っても近所の同級生や年下の子供たちを集め、暇さえあれば没頭する。
 隣の定食屋『よしむ』の間にある細い路地から、太った女が歩いてくるのが目に入った。近所なのに小学校が違うので、僕はこの子の名前すら知らない。
 この世代は『第二次ベビーブーム』と呼ばれ、とにかく子供が多い時代だった。なので受験に打つ勝つ為に、教育熱心な親など急増した時代でもあった。僕の家からは近くに三つの小学校がある。どこへ行ってもそんなに距離は変わらない。なので親が通った今の小学校に行った訳だが、隣近所でもまったく違う小学、中学校という子もいた。
「おい、デブがいるぞ!」
 僕はその子を見つけると、みんなに言った。
「やっちゃえ」
 誰かがそう言いながらドッジボールの球をぶつける。みんな、その辺の石を拾い、足元目掛けて投げつけだした。必死にその子は逃げるが、焦っている為途中で足をもつれさせ、道端に前のめりに転んだ。
「うわ~ん」
 道路で潰れたヒキガエルのような格好で泣き出す女。
「この野郎、泣いてんじゃねえ」
 僕はその上から容赦なくドッジボールをぶつけた。
 今になって思うと、本当に酷い事を平気でやったものだ。子供は残酷と誰かが言ったが、まさにそれを象徴するような出来事だった。

 小学校一年生の龍也は、近所のパチンコ屋『ジェスコ』の息子と同級生でよく道端で遊んでいた。この子の家も僕らと同じ三兄弟で、龍也の同級生の吉岡は長男だった。
 顔立ちが特別格好いいという訳ではないが、映画館の『ホームラン』で見たジャッキーチェンに似た顔立ちをしていたので、とても強い奴だと僕は思っていた。
 よくパパに連れられ『ジェスコ』で床に落ちている球を拾い、台に設置されている手打ちのバネで弾いて遊んだ。
 当時『アレンジボール』というパチンコ台とは一風変わった台があって、百円玉を入れると「ガッガッ」とすごい音を出しながら二枚のコインが出てくる。内容は決まったパチンコ玉の数を手打ちで調整しながら打ち、画面に表示された数字のパネルをビンゴすればメダルが出てくるというもの。僕は、相撲取りが動く台のパチンコを好んでよくやった。
 強くなりたいと常に思っていた僕は、そのパチンコ屋の息子の吉岡の頭を叩いたり、蹴ったりするようになる。ジャッキーチェンに似た男をやっつける事で、強くなれると勘違いしていた訳だ。
 外見とは逆にすぐ泣き出してしまう吉岡。それでも僕は構わず叩いた。
 ある日、連繋寺の『ピープルランド』にパン屋の太郎ちゃんと遊びに行く約束をして、家の前の路地を歩いている時だった。道沿いにはパチンコ屋『ジェスコ』がある。
 電信柱があり、その陰に吉岡が隠れていた。僕からは見えないとでも思っているのだろうか?
 気付かないふりをしてそのまま歩くと、吉岡は絵の具で使うバケツを持っていて、僕目掛けて水を引っ掛けてきた。
 いたのは予測していたので水をかわすが、横っ腹に少しだけ掛かってしまう。
「この野郎っ!」
 僕は吉岡の髪の毛をつかみながら、グーでボコボコに殴りつけてやった。
 しかし彼は鼻血を出しながら、僕に掛けた水の染み付いた洋服を見ながら、「やった」と満足そうに笑っていた。薄気味悪さを感じた僕は、この日を境に吉岡を苛める事はしなくなった。
 それからしばらくしてパチンコ屋『ジェスコ』は潰れ、吉岡の家族はどこか別に場所にいってしまった。今ではもう二度と連絡すら取れない。

 僕はクラスの女子をよく苛めるようになった。男の子は好きな女の子を苛めるものだと、誰かが言っていたが、残念ながら僕には該当しなかった。ただ、苛めて困る顔を見るのが楽しかった。だから僕は無差別に女子を苛めた。
 男子の中では英雄扱いでも、女子には嫌われた。でも、全然へっちゃらだ。休み時間になると、数名で女子は固まり僕を警戒するようになった。比較的おとなしく苛めたらすぐ泣きそうな女の子は、苛めのリストから外していた。
 ある日、クラスの中で些細な事から男子対女子の対立が起きた。僕の前に座る隣同士の男女が口喧嘩から始まった。この時はまだ休み時間である。
「おまえって猿みたいだよな」と男子生徒の深沢が言った。この男、ひょろッとしているが、クラスでも頭一つ分つき抜けた身長がデカい男である。
「何よ、あんたなんてウドの大木じゃない」と女子生徒の益田清子が言い返す。
 後ろの席で、どうでもいいような言い合いを眺めていた。ただお互いを罵っているだけの言い合い。途中で益田が涙ぐんでいた。
「もうこんな奴の隣は嫌だ」
「俺だってごめんだよ。おまえがどっか行けよ」
 深沢の言葉に、その子は爪で腕を引っかきだした。益田は引っかき技が得意なせいか、あだ名は『キーちゃん』と呼ばれている。いや、名前が清子だから『キーちゃん』なのか分からない。でもすごい勢いで引っかいている。深沢は泣きながら髪の毛をつかみ出す始末。目の前で取っ組み合いの喧嘩に発展した。
 たまたま益田の振り回した腕が、僕の頭に当たる。僕はその中に飛び込み、戦火はどんどん拡大した。ただ見ている男子にどんどん号令を掛けた。
「おまえら、女どもをやっちゃいよ。男を舐めるんじゃねえ」
 僕の号令で面白いように喧嘩の輪があちこちで勃発する。男子の司令官はいつの間にか僕になっていた。この小さな戦争にクラスの半分以上は参加した。
 クラス内の男女戦争とも言うべき結末は惨めなものだった。ママから殴られ慣れていた僕は、同級生の攻撃が怖く感じなかった。隣の女子が泣き出すと、あちこちで悲鳴や鳴き声が聞こえ出した。授業が始まるチャイムが鳴り、自然とみんなの動きが止まった。
 みんな、地べたに座り込んでへとへとになっている。小さな戦争に参加した大部分の子が怪我をしていた。結果的には男子の優勢勝ちだったろう。でも、そんな事はどうでもよくなっていた。
「何をしてるんだ、おまえら」
 気がつくと、教室の入り口に福山先生が立っていた。驚いた表情で、教室の状態を見てから怒った顔に変化する。あれだけ騒がしかった教室は一気にシーンと静まりかえった。
「神威君が悪いんです」
 誰かが泣き叫んだ。僕は声をした方向を睨んだ。すると、女子が一斉に僕の名前を言い出した。見る見る内に先生の顔は赤くなり、僕だけを見ていた。
「神威が首謀者か?」
 先生は僕に真面目な顔で聞いてきた。緊張が走る。
「はい、クラスの女子が生意気だったんです。だから男子にやれって号令掛けました」
 僕がそう言うと、先生は近づいて腕をつかんだ。かなり怒っている、ヤバいなあ…。僕は内心とは裏腹に、みんなの見ている前だからと無理して強がった。
「神威、先生と来い」
 強引に立たされる僕。涙が出そうになるが、一生懸命こらえた。
「みんなも先生のあとをついてこい。いいか、全員だぞ」
 福山先生に腕をつかまれた状態で、僕は廊下を歩いている。クラスのみんなも無言であとからついてきた。体育の授業でもないのに、一クラスの生徒が一斉に廊下を歩く姿は、他のクラスにどのように見えたのだろうか。

 行き先を告げられないまま、着いた到着場所は体育館だった。僕の腕をつかむ先生の手が離れた。体育館の中にいるのは、僕と先生の二人のみで、残りの生徒は扉の外から様子を伺っている。先生は無言で用具室へ向かい、運動マットを引きずり出していた。そのままマットを横に三枚並べると、ちょうど正方形に近い形を作った。
「みんな、中へ入れ。早く入れ」
 先生の声は顔と同様に厳しかった。うな垂れながら重たそうな足取りで、体育館に入るクラスメートたち。僕一人だけが違う場所にいた。
「神威、上履きを脱いでマットの上にあがれ」
 先生に言われるまま、マットの上にあがる僕。僕にとって、目の前のマットはプロレスのリングのように見えた。
「クラスの女子に手を出したように、先生にも掛かって来い」
「……」
 いくらそう言われても、先生に突っ掛かるなんてできる訳がない。掛かったところで、コテンパンにやられるのが分かる。
「どうした、女とか弱いものには暴力を振るえても、先生にはかかって来れないのか?」
「くそぉー」
 僕はみんなの見ている前だというプライドもあり、先生に突進した。大きな手が頭を抑え、僕の突進は簡単に止まる。先生はそのまま力を入れて頭を強引に押した。僕はマットに転んだ。悔しい…。何で僕だけがこんな思いをしなきゃならないんだ。
「どうした、もう終わりか?」
「ちくしょ……」
 僕はそう言い掛けて慌ててやめた。ママがヒステリックな鬼の顔になった時の台詞をあれだけ怖がっていた僕が使おうとしている。やや、間があいて辺りはシーンと静まり返る。
「くっそー……」
 再び立ち上がり、僕は先生に向かっていった。結果は何度繰り返しても同じだった。何で僕はこんな事をやっているのだろう。体がクタクタだ。この場から逃げ出したかった。でも、何故か必死に突っ掛かっていった。
「がんばれ、龍ちゃん」
 誰かの声が聞こえた。純治君だった。隣の男子は焦った表情で見ている。
「馬鹿、ヤバいだろ。そんな事、言っちゃ……」
「うるせえ、龍ちゃんは何度も倒されたって、立ち上がってるじゃねえか」
「頑張れー、神威君」
 幼稚園の時からの同級生だった洋介君まで、僕に声援を送り出した。
「がんばれ……」
「がんばれっ、神威っ」
 この間、殴り合いの喧嘩をした神谷君の声まで聞こえた。
「頑張れよー」
 純治君や洋介君の声で触発されたかのように、あちこちで声援があがりだした。心の中に温かい何かが流れてきた。ママの打ち方に比べたら、先生は手加減してくれている。僕がここで投げ出したらどうするんだ? 正しい、正しくないは別にして勇気が湧いてきた。
 何度も向かっていき、何度も倒された。クラスのみんな全員が真剣に注目していた。あれだけいがみ合っていた女子からも声援が起きだした。
「分かった。もういい」
 静かに福山先生は言った。僕は汗をぬぐいながら、先生の目を見た。
「みんな、ちゃんと見ていたか。先生は女に暴力を振るう男が大っ嫌いだ。神威は悪い事をしてしまった。ここにいるみんなもそうだ。神威は自分で率先してやった一番悪い奴だ。だから先生は神威を何度も倒したんだ。でもな、神威は諦めないで何度も先生に掛かってきた。悪い事は確かにした。でも、それからこいつは逃げなかったんだ。だからみんなも勝手に声援を送り出したんだろ? 仲良くしようとしれば、おまえらできるんじゃないか。先生が何も言わなくたって分かってるんじゃないか。今の気持ちを忘れないでほしい…。神威、よく頑張ったな……」
「ご、ごめんなさ……」
「もういいんだよ、神威。よくやった」
 今まで踏ん張っていた何かが、急になくなった。僕はみんなの前で泣いてしまった。そんな僕の姿を笑う人間は誰一人いなかった。代わりに全員が拍手をしてくれた。自然と起きた現象だった。今まで送られたどんな拍手よりも暖かい拍手だった。
 福山先生の顔は体育館に来てから、初めて笑顔を見せた。僕はこの件で、前よりも先生が大好きになった。

 

 

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