パソコンの中に入っている写真を整理していたら、田んぼの写真があった。
「いつ、どこで撮った写真だろう?」
データでは2005年5月となっている。日にちが不明なので、当時の日記を調べてみると、5月31日に『鞍手町の長谷観音(奈良や鎌倉の長谷観音と同じ木で造られたもので、国宝になっている)にお参りに行った』と書いてある。その写真はその時のもので、当時の携帯電話で撮ったものだろう。
長谷観音に参拝する時は、いつも寺の前にある食堂に駐めているが、そういえば、その食堂の裏は田んぼになっている。写真の田んぼの場所は、おそらくそこだろう。日記をつけていると、こういう時に役に立つ。
少し前までは、ぼくの家の近くにも、こんな田んぼがあった。しかし、気がつけばそのへん一帯は宅地に変わり、こういう田んぼを見るためには、車を走らせなければならない。
ところで、昔は田んぼがある場所を、単に『田舎』と呼んでいた。高校に入った頃、ぼくの通った小学校の周りに田んぼがあるという理由だけで、ぼくは『田舎者』呼ばわりをされていたものだ。
だけど、そのことについてぼくは反論できなかった。なぜなら、ぼくも『田んぼ』=『田舎』と思っていたからだ。
しかし、いつからか「これはおかしい」と思うようになった。考えてみると、田んぼというのは米の生産工場なのである。そこには先人の叡智が集結し、様々なハイテク技術が駆使されている。そこを『田舎』と呼ぶのは、あまりにも失礼だ。
ということで、以来、ぼくは田んぼのある所を田舎とは言わなくなった。
朝の詩