道路や公園整備を中心とした震災・戦災後の復興
1923年(大正12年)、関東一円で発生した震災は、マグニチュード7・9の激しいものあった。昼時で火災が広がったことから、死者は10万人を超えた。その後の復興で描かれた計画は、東京全体を改造する大規模なものであった。しかし、予算との兼ね合いから、実際の整備は消失した下町を中心に限定的になされた。
そして、第二次世界大戦。東京は118回の空襲を受け、この際も死者は10万人を超えた。消失面積は関東大震災よりも広いものであった。戦災復興の計画では、都内に環状道路と放射道路とで交通の網目をつくり、かつ延焼防止の緑地をつくるというものであった。しかし、幅員80~100mとして計画された道路のほとんどが25m級に変更された。また、緑地はいつのまにか農地になり、やがて宅地化が進んだ。河川の多くも戦災のがれき処理の場として埋め立てられた。東京の復興は、計画はよかったとしても、その実行に問題があったといえる。
そして、東京の震災及び戦災の復興計画で共通する点を2点、指摘する。1つは、延焼防止のために緑地や広幅員の道路、区画の大規模化を中心としていることである。2つめは、歩くためであった道路を広げることで、モータリゼーションを加速化されることになったことである。
もし、計画通りに道路が整備されたなら、歩行者、あるいは自転車と自動車がゆとりをもって共存する街ができていたかもしれない。また、路面電車も、自動車の増加のために廃止されることなく、地下鉄を高密度に整備せずとも、公共交通の街をつくることができたかもしれない。
万博で注目されてきた科学技術
戦災復興から立ち直った日本は、世界が驚く高度経済成長を遂げた。その象徴的なイベントが、1970年に大阪の千里丘陵で開催された日本万国博覧会(大阪万博)である。
開催テーマは「人類の進歩と調和」。日本館では、リニアモーターカー、南極探検、ファイバースコープ、耐震建築などを未来技術として紹介された。また、アメリカ館の月の石、宇宙船等が人気、会場内の移動には、「動く歩道」が設置された。提案された技術は、その後、実際の都市整備に導入された。
そもそも万博は最新の科学技術のお披露目の場であった。最初の万博であるロンドン万博(1851年)では蒸気機関車や水洗トイレ、フィラデルフィア万博(1876年)では電話機、パリ万博(1889年)電灯、セントルイス万博(1904年)の自動車、飛行機など、その後の都市の基盤となる新たな技術が発表されてきた。
しかし、大阪万博を皮切りとした1970年代は、ちょうど時代の転換期でもあった。日本では、公害に関する法律が整備され、2度のオイルショックを経験した。科学技術の進展と経済成長だけを追い求める段階から、環境の保全や再生、再生可能エネルギー、省エネルギー等にも配慮せざるを得ない段階へと時代は変わってきた。
自然災害、戦災からの復興、科学技術の進歩、環境・エネルギー制約の顕在化と、時代の流れとともに、未来の描き方は変わってきた。そして、今、東日本大震災を経験した私たちはどのような未来を描くのだろうか。描くべきなのか。
参考資料)
財団法人国土技術研究センター 講演会「震災復興・戦災復興の成果・失敗とその反省を踏まえて~東京の失敗を東北に持ってくるな!~」 http://www.jice.or.jp/oshirase/201110111.html