団塊の世代の世間話

60年を生きてきた思いを綴った「ゼロマイナス1 団塊の世代の世間話」を上梓し、その延長でブログを発信。

人のせいにする風潮が蔓延した結果か

2008-06-22 15:30:25 | Weblog
 秋葉原殺傷事件をきっかけに、若者の閉塞感が話題になっている。人を殺したことは絶対に許せないが、犯人の怒り、絶望感に共感できる、という話だ。とはいえ、その共感を普遍化できるのか、と考えてみたい。
 犯人・加藤は25歳。多少、顔は不細工かもしれないが、健康にも恵まれ、派遣の工場労働者とはいえ、定収もあり、決して恵まれない境遇ではない。
 現在がそうであっても、まだ25歳だ。これから生涯の伴侶に巡り合えるかもしれない、もっといい職につくこともあるだろうし、あるいは宝くじに当たるかもしれない。
 いろいろと考えれば、どうしてそこまで自らを追い詰めたのか、と不思議だ。すべての考えがネガティブに落ち込み、欝に近い精神状態になったのか。やがてそれが怒りに昇華し、自滅の道を突き進んだ。
 だから一般論で語ることは、やや無理があるし危険でもあるだろう。
 我々が25歳のときは、まだ自分が何者かも分からず、将来に期待と不安が渦巻いていた。決して、社会や家庭・他人と自らの不遇を照らし合わせて考えることはなかった。
  自分の現在の在り様は、自分が招いた結果と考えていた。人のせいにはしなかった。分を知るという世間知があった。だから今の若者は、という論法にはならないが、そうした思考法が当たり前だった。
 この何年間のあいだに、社会も人間も変わったが、人の考え方も変わったとしかいいようがない。その根本は、なにごとも人のせいにするという能天気な精神構造になってしまったことだ。その思考法では、なにも問題は解決できないし、問題の所在を分析しようとする姿勢すらない。
 戦後教育による権利意識の肥大化と悪平等が、そのベースにあり、ふつうの人でも弱者として規定する風潮に染まった。自分の権利がだれかに冒されたら、暴発する。怒りが人に向かう。犯人・加藤と同じ精神構造だ。
 なにもしなくても、権利があると教えられれば、義務も考えずに、人はその権利を主張するようになるだろう。それが戦後何10年も続いてきた。
 その結果が、現在の世の中なのではないか。憲法にいう権利を有する、とかなんとかは別に、人々の中にまだある、人としての常識、前述の分を知るなどを再発見することはでないか。
 そうした常識がもし犯人・加藤の周りにあれば、もうちょっと辛抱していてごらん、きっといいことがあるから、と誰かがささやいていることだろう。将来の希望を抱くのは、自分だけでなく周りの人々とその希望を共有することで明るく輝いていくものなのだ。そんなこともかつては当たり前だったと思うが、気がつかずに失われていくものがある。結局、その犠牲者は次の世代になってしまうのが残念である。。http://www.blogmura.com/ にほんブログ村

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