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近江・山崎山城 安土城に関連し信長のが築いた本格石垣が残る城郭。下街道(朝鮮人街道)との関連も興味深い

2020-07-18 | 歴史

山崎山城は滋賀県彦根市稲里町・清崎町・賀田山町にまたがって所在します。

 水道施設建設のために行われた発掘調査によって、わずかに見えていた石垣などの全容が明らかになり、裏込め石を入れた本格的な石垣の城であったことが判明し、今に残る城郭遺構は織田信長の築城と判明したとされます。今回は (1)「山崎山城跡発掘調査報告書」を参考資料として出掛けました。
 山崎城は織田信長が安土城を築いた時、山崎山城下を街道が通過するように東山道を分岐させたと伝わり、信長が岐阜から安土へ移動する際の中継地点としても重要な位置を占めていたとされます。


山崎山城 山崎山城からは南西側、東北側の眼下に下街道が見渡せる。 地図の張り合わせの線が出ています
 今は樹木で遮られ東側しか眺望が効きませんが、往時は南西には街道の向こうに観音寺城、安土城などが見え北東は彦根方面が街道の先に望めたと思われます。岐阜方面から進んできた信長の安土城到着を1時間前にここからノロシで知らせることが出来たのではないかと想像しました。
※旧図を見ると、かなり最近まで安土城の周辺まで琵琶湖が迫っていたのがわかりますね。


山崎山城 下街道は不自然に曲がっている。安土城の北の守りも重要な役割だった可能性がある
 下街道は信長が整備したとされますので、街道を安土城下に迂回させるだけではなく、安土城の北の守りとしての役割もあったのではないかと思いますがどうでしょう。
 水道施設の建設と山崎山城の公園化に伴って無料駐車場が北側の山下に完備され、城址を越えて行くハイキング道が整備されていましたが往時の城道は西尾根からだったようです。


山崎山城 発掘調査で「城破り(しろわり)」が行われていることが確認され、調査後埋め戻された
 発掘調査後に埋め戻されたので、今は石垣の一部しかみることが出来なくて残念ですが、往時の「石の城」の輪郭を示すように「城破り」された顔を出している石垣の最上部が周囲を取り巻いているのをみることが出来ました。
 往時の石垣の高さはどれほどだったのかはわかりませんが、城郭をぐるりと取り囲む石垣で威容を示していた山崎山城を想像しました。


山崎山城 図2 東端部の石垣 見学路は整備され、遺構保護のためかアスファルト舗装されている
 城破りされた石垣の上端部が見えるように埋め戻され、見学路にはアスファルト舗装が行われていました。
路面の下にどれだけの石垣高があるか見えませんが、資料(1)によると、条件の良い場所では石垣は1.2m程残っていたとされています。その上にさらに石垣が積み上げられていたのですから場合によっては3m近くの石垣の高さがあったかもしれないと想像してワクワクでした。


山崎山城 図2 Ð地区北東部の折れのある石垣 西から見る
 図2の Dには石垣の折れが見られました。いわゆる横矢掛の備えがここに有ったのではないでしょうか。埋め戻されて一石分しか見えていませんがこの下にも、上にも往時は裏込石を入れるような高い石垣が積まれていたと言うことですね。


山崎山城 尾根を石垣で積んで平坦面を作って城郭とした。東から西にかけて4段の平坦面が見える Dから
 公園化で遺構の中心部を東西に貫く見学路兼ハイキング道が整備されていました。遺構は図2のD、C、B、Aの順に高くなっていました。写真奥の西端部は西尾根からの侵入に備えた櫓台状の土塁が築かれていました。


山崎山城 図2 A地区と西端部の櫓台状の土塁E 東から
 A地区はいわゆる主郭に相当する部分だと思いますが資料(1)ではA地区とB地区は一体で石垣でコの字型に囲まれていたとされます。この地区は石垣遺構が埋まっている様で、現状の地表面の地形だけから判断してはいけないようです。
 写真奥の土塁Eは中央部が凹んでいますが、これはハイク道によるもので、往時には凹んではいなかったようです。


山崎山城 土橋Hを西から見る 奥にハイク道の階段が見える・・土塁Eの凹みに至る
 遺構の西端部には西尾根からの侵入に備えて、堀切と土橋が設けられていました。写真の土橋を渡って土塁Eの手前を左に折れるのが本来の道で直進する道は公園化によるハイク道です。


山崎山城 竪堀F 北から。樹木の陰になっているが奥に土橋Hがある
 一般的には竪堀FとGの地形は堀切と呼ばれるように思いますが、資料(1)によれば土橋Hを掘り残して有るので、尾根を断ち切っているとは言えないから堀切ではなく竪堀と土橋の組合せだという見解が示されています。発掘調査結果で堀の深さは現状よりも1mほど深く、堀の深さとしては1.8mほどあったようです。


山崎山城 D地区 南辺の石垣  東から
 南辺の石垣は部分的に崩れているようですがかなりの長さが残存していて見どころでした。この石垣も裏込め石が入っているようです。現況の石垣よりもどれだけ上に石垣が積まれていたかは判明していませんが、見事な石垣が下街道からも見えていたことでしょう。

 山崎山城は発掘調査によって裏込石の入った総石垣の「本格的な石垣の城」だったことが判明し、「城破り」によってかなりの部分が崩されていることもわかった戦国時代後期の城でした。出かける前に資料(1)をもっとしっかり読んでおけば更に充実した見学ができたと思いました。

※資料(1)は「山崎山城 発掘調査」でネット検索すると調査報告書の全編がPDFファイルでダウンロード出来ますので、見学に行かれる際は事前にご覧になることをおすすめします。