朝一のPC作業の中、つい読んでしまったこの記事。
中でも以下の部分が気になった。
私は、鞆の浦が妙に好きで、これまで何度も訪れている。
当然、対岸にある仙酔島に渡るために渡海船【いろは丸】にも何度も乗った。
そろそろ、あれから12年も経つんだと再認識して、人生の黄昏を噛み締めている。
最近、詰んだ状況から漂う自己の閉塞感によって、こうした心境に陥ることが増えた。
『いやいやまだ、ひと頑張りせんとな』
そう自分に言い聞かせて、さああ、けふも具体的に動こう!
以下引用
坂本龍馬「当たり屋」説から生じる紀州藩関与説
状況証拠として考えるならば、最近、私がもしかしたらと思うのが、坂本龍馬「当たり屋」説から導き出される、紀州藩関与説です。
坂本龍馬が日本初の貿易商社である「亀山社中」を結成し、その後、新たな組織として「海援隊」を作ったことはよく知られています。この海援隊が操船した蒸気船・いろは丸が、慶応3(1867)年5月26日、瀬戸内海を航海中に紀州藩の軍艦・明光丸と衝突事故を起こし、鞆の浦付近で沈没した事故が起こりました。
このとき、海援隊と紀州藩の間で裁判が行われましたが、坂本龍馬は万国公法を持ち出して「非は明らかに明光丸にある」と紀州藩に多額の賠償金を求めたのです。
いろは丸は長崎からさまざまな物資を積んで、大坂に向かう途中でした。船の積荷には大量の金塊や最新鋭の銃が積んであったと龍馬と海援隊側は主張しました。
いろは丸と明光丸はそれぞれ衝突の直前、回避行動を取っていました。いろは丸は取舵、つまり左に舵を切りました。一方の明光丸は面舵、つまり右に舵を切ったため、両船とも同じ方向を向いてしまいます。そして、明光丸の船首が、いろは丸の右舷に衝突してしまったのです。
龍馬は「万国公法」に照らし合わせて、明光丸の側に非があると主張しました。しかし、実は当時も現代も、国際法上は前方から船が向かってきた場合には、お互いに面舵(右舵)を取り、衝突を避けるのが大原則となっていました。つまり、この場合、面舵を取った明光丸のほうが正しい回避方法を実行していたわけで、取舵を取ってしまったいろは丸にこそ非があるのです。
そのことに気づいていた龍馬は、それを百も承知で、口から出まかせを言って、紀州藩を言いくるめてしまったのでした。
さらにすごいのが、その請求した賠償金の額です。沈没した船の購入費3万5600両の弁償。そして積荷のミニエー銃400丁に金塊の賠償金もこれに上乗せして、全て合わせて総額8万3000両を、龍馬は紀州藩にふっかけたのでした。
「胡散臭さ」も含めた、人間・坂本龍馬の魅力
平成元(1989)年、地元の有志で結成された「鞆を愛する会」が、鞆の浦から15キロメートル沖合の水深27メートルの海底で、沈没したいろは丸を発見しました。その後、京都の水中考古学研究所により、平成17(2005)年までに数回の調査が行われて、さまざまな遺物が見つかっています。
しかし、龍馬が積荷であると主張した銃や金塊のたぐいは一切見つかっていないのです。つまり、龍馬は徹底的にはったりをかまして、自分たちの非を言いくるめるばかりか、多額の賠償金までふっかけてぶんどっていたのです。まさにそれは「当たり屋」のようです。
その後、龍馬は暗殺されるのですが、海援隊の面々は龍馬の暗殺は紀州藩が関与していたのではないかと考えます。いろは丸の裁判を恨んで、紀州藩が龍馬を暗殺したと見なし、紀州藩士・三浦休太郎が逗留していた京都油小路の旅籠・天満屋を襲撃したのです。
危険を察知した紀州藩は、会津藩を通じて、新撰組を派遣してもらい、警護にあたらせました。その結果、海援隊と新撰組の間で、戦闘に発展し、死傷者が出るほどの騒ぎとなりました。
つまり、龍馬の仲間たちは、紀州藩が龍馬を暗殺したのだと考えて、行動を起こしているのです。紀州藩からすれば、あることないことでっちあげられて、当たり屋のような真似をされ、多額の賠償金を取られたことを恨みに、坂本龍馬の暗殺を実行したということもあり得なくはありません。
いずれにせよ、いろは丸の裁判だけを見ると、坂本龍馬という人物は非常に胡散臭く見えてしまいます。それも含めて、人間・坂本龍馬の魅力だったということでしょうか。
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