★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

深夜は睡るに限ること

2024-11-14 23:48:21 | 文学


 先ず、急を要することは、全国の風光明媚なる高原に、海浜に、幾千万の精神病院をつくることである。国家的な大事業であり、疲れたるヤカラをみんな送る。看護婦もたくさんいるし、輸送も大変、催眠薬の製造も忙しい。睡眠省とか、睡眠大臣というものが必要であり、初代の大臣は私がならなければならないだろう。私がこんな心配をしなければならないのも、深夜のメイ想などという不健全な古典的言辞を弄する精神匪族が残存しているせいである。

――坂口安吾「深夜は睡るに限ること」


わたしの知り合いの政治家もあまり寝ないで忙しいのだが、――あんな働き方が普通の人間にできるはずがない。しかし、アドレナリンだけが猛烈に出ているようなやつらの頭がまともかどうかもわからん。もっとちゃんと寝ればもしかして国を誤ることも少しはヘルのであろうか。

そういえば、わたくしのでたT大学はますます樹海の中に埋没しつつあり、もっとも物質的に開かれていたのは、移転反対派や移転賛成派がリンチに遭っていた開学当時であるといへよう。キャンパスの夜なんか、むしろ暗黒に開かれているとしか思えない明度である。一度、停電の時に歩いてみたんだがほんと何も見えなかった。わたくしも当時、いっちょ前に暗黒が嫌いであった。だから夜も起きて本を読んだりビデオを観て遊んでいたきがする。

赤川次郎は規則正しく朝からきっちり仕事をして量産した。勤め人のハイドンが交響曲を量産したのはその意味でわかるような気がしないではない。が、ミヤスコフスキーとかがよくわからん。

一日中白昼夢のようなわたくしは、わりとすぐに夢に見る人で、最近は斎藤史とかローラ・パーマーと夢で会った。

叛乱譜と松田聖子の同時代

2024-11-13 23:15:12 | 思想


「非国民の子」は敗戦の日までのはずであった。しかしそれは、逆の意味で戦後も引きつがれることになる。人々にとって戦争は悪夢であり、それは早く忘れたいものであった。しかし、「非国民の子」は常に戦争と共にあった。しかもそれは、常に戦争推進に協力してきた自分の過去そのものであり、日本の敗戦にもつながるものであり、それは社会的にもいえることであった。人々は「戦争」に対する価値観の百八十度の転換の中で、自らを平和主義者に転向させた。その人々にとって、「非国民の子」は戦争を背負っており、逆の意味で「非国民の子」を象徴していたことになる。これに対して、ベビーブーム世代は『新生日本の子供たち』と呼ばれ、社会的にも歓迎されていた。戦争という苦難からの解放、人生を新しくやり直すための一つの象徴的存在がベビーブーム世代にはある。彼らは、時代的にも、敗戦による極度の混乱が収拾してから生まれており、そこに敗戦を背負う戦時中生まれとは大きな差がある。

――田中清松『戦中生まれの叛乱譜』


田中のこの世代論は1985年のものである。だいたいの転向者というのは、その実「回帰」しただけだみたいな、雑な真実が横行するようになってから随分たつが、田中をはじめ、そこそこ戦後の世代問題が複雑なことはみんな自覚があった。それが、戦中で苦闘した連中はいやだったに違いない。たかが敗戦ぐらいで自分たちの思索をなかったことにしてもらってはこまる。だから花田清輝なんかも「ヤンガジェネレーション」よと喧嘩を売ったし、対して埴谷雄高なんかは「花田清輝よ」と固有名を強調したりする。むろん、自分がその世代問題に巻き込まれるのがいやなのだ。花田と埴谷には別の方向ではあったが逃避があった。

坂口安吾もそうであった。

個体発生は系統発生を繰り返す説があやしいように、青春から成熟に向かう時代があるとは思えない。安吾の堕落論が青春論とセットであるように、何か個人のなかに歴史を見すぎ、歴史の中に個人の発達みたいなものを見過ぎているのではなかろうか。それも逃避の一形態である。

そうなると、われわれは、人間の堕落とか弁証法以上に、身もふたもない状態を望むようにはなるわけである。プロレタリアートは絶対正しいと言っていた戦前の知識人はけっこう居たように思うが、それ以上に、ほんと絶対正しいんだ正しくなくても、という状態を主張している我々よりは、観念的ではない。

――ところで、「生めよ増やせよ」政策から疎外された、戦争末期の「非国民の子」のことを考えていたら、わたくしの庭のことも思いだした。だいたい「生めよ増やせよ」は単独の政策ではなく、ナチスを真似た「健康な結婚」道徳政策、根本的に差別的健康政策であることを看過してはならぬとおもうのだ。我々は、健康を謳いながら、ウメよフヤせよにはならず、他人の介護に直面している。それがいやな人間が、じぶん以外の破滅をのぞみ始める。そういえば、我が家では、かかる優生学に反対し、雑草と蛙を最優先にしてたら綺麗なお花が全滅した。

そういえば、津村喬の「横議横行論」ていうのは、1980年頃の論文だったのである。田中の本よりも5年早いが、わたくしは勝手に70年頃だと思っていた。ある意味で松田聖子と同時代性があるわけである。

前川左美雄対木俣修――植物とカレー

2024-11-12 23:30:44 | 文学


誰もほめて呉れさうになき自殺なんて無論決してするつもりなき

わけの分らぬ想ひがいつぱい湧いて来てしまひに自分をぶん殴りたし

五月の野からかへりてわれ留守のわがいえを見てるまつたく留守なり


前川左美雄の『植物祭』は、学生の反応が「おっいまどき」みたいな反応過ぎてぐっとつまり。

これに比べると、木俣修の『昭和短歌史』はカレーを食べるみたいなスピードで読めるね。

地域密着型代議士のスキャンダルについて

2024-11-11 23:28:21 | 文学


やぼはいやなり、中位なる客はあはず、帥なる男めにたまたまあへば、床に入ると、かしらから何のつやもなく、「女郎、帯とき給へ」といふ。「さてもせはしや。おふくろさまの腹に十月よくも御入りましました」などいうて、すこしは子細らしく持つてまゐれば、この男いひも果てぬに、「腹にやどるも、これからはじめての事。 神代以来、この嫌ひなる女郎はわるい物ぢゃ」と、はや仕掛けて来る。それを四の五のいへば、「むつかしい事はござらぬ。さらりといんでもらひまして、女郎かへて見ましょ」


なにか不倫?事件があると、相手の異性だけでなく本人も頭良くないみたいなキャラになってしまっているが、本人も頭脳明晰、相手が紫式部みたいだったかもしれないじゃないか。テレビでは「欲望に負ける男はだめ」みたいなことを若い女子が言うていたが、たしかに上のように野暮な男はいやなものだ。好色一代女でなくてもぶん殴りたくなる。

だいたい、日本の政治家は北村透谷を読み直した方がいいんじゃないかな。恋愛は厭世詩人の最後の砦である。

センシユアル・ウオルドを離るゝなり、吾人が肉を離れ、実を忘れ、と言ひたるもの之に外ならざるなり、然れども夜遊病患者の如く「我」を忘れて立出るものにはあらざるなり、何処までも生命の眼を以て、超自然のものを観るなり。再造せられたる生命の眼を以て。


「夜遊病患者の如く「我」を忘れて立出るもの」は詩人に任せろ。

伊藤博文や最近の札の絵になっている人の10倍ぐらい愛人がいるとか、おれのツイッターはフォロワー100万だぜとか、俺のかいた両界曼陀羅圖をみろとか威張っているような政治家はどこかにいないのか。詩人が対立しようがないではないか。中学生の頃、東大に入るひとたちは、例えば性欲を学力に転換するような化け物だと思っておりましたが、江川達也の「東京大学物語」でそれが幻想だと知りました。というのは、全くの嘘であるが、江川氏のような創作もどこか野暮なものとはなにかという観点を閑却し、性慾か学力かみたいなところがあった。で、こういうマンガまで、ナラティブの概念を存分に利用して、何かを言った気になっていたのは否めない。

庭の雌の蛙は、――雄かも知れないが、実に清潔である。このまえFMで一九六六年録音の「ピーターと狼」をやってたが、ピーターを池田秀一氏がやってた。まだ十代のシャア大佐である。実に清潔な声であった。

世は好色一代女の時代に比べて複雑になってしまった。中央集権の国民国家体制だから、――そのなかで、不平等な自由な主体が、良心的な奴隷を生産してしまうのである。政治家や芸能人もどこかしら、その不平等性を望んでいる。彼らが、客や人民の前でかれらと平等な主体であることを強いられることは、かなりの抑圧である。

ある者はずるいから、平等に安心立命しながら暴力をふるうことを考える。横関至氏が論じていたと思うが、戦時下の安全運動というのはまったく戦争と無関係どころか強力なエンジンであった。もっとも、それは戦争に限らずエンジンなのである。それは安全論者たちの保身を合理化するものでもある。下品な比喩をつかうならば、それはいってみりゃ避妊具なのだ。

紫金の鉢

2024-11-10 23:28:13 | 文学


行者の輩忿氣然々として大雄殿前に到り、呼はつて曰く、「如来聴き給へ。我輩師徒、千萬の苦辛を凌ぎ、遙々と東土より来り、如来を拝して經を求むるに、阿難迦葉、我們が人事無きに因って、故意無字の白本を興へしめたり。 我們是を取歸りて何の要にかせん。如來快く兩個の和尚が罪を糺問し給へ」仏祖笑つて日く、「你們嚷ぐ事なかれ。阿難等が人事を要めんと云ひし事も、我能く是を知れり。但是此経、軽く傳ふべからず、空く求むべからず。向年、衆比丘等山を下りて、舎衛國趙長者が家に行て、此を一遍讀誦し、他は家を保ち、生者は安全、亡者は濟度したりと雖も、他們黄金白銀米粒三斗三升を討め得て還りしすら、我尚だ忒だ賤賣とす。

西遊記を読んだ者が驚くのは、ようやくお経をもらえると思ってたどり着いたところで、賄賂を要求された事態であろう。しかし、たしかにいくら苦労したからと言って簡単に答えをもらえるとおもってもらってはこまるのだ。学生にはよい教訓である。しかも、悟空がここで激怒してかめはめ波撃ったりして如来共を殲滅したりせず、ちゃんと少し妥協し、紫金の鉢をやつらに渡したうえで、お経をもらって帰るところがいいと思う。

ところで、わたしが幸福だったのは、わたくしがいた環境では研究やら文学やらが「進路」の選択として扱われたことがなかったことであった。三蔵はどうだったかわすれたが、苦労の前に内発的ではあったと思う。進路のなかに「研究者」があるような環境にいたら絶対にやってない。こういう幸福な人が、大学院に行ったときに気を付けないといけないのは、急にそれが「進路」になってしまうことなのである。だからはじめから「進路」だと思ってやってきた小山に登ろうとする奴よりも、その苦労の中で深く傷つく可能性が高い。だから、それを乗り切るためには、単に学問に夢中になっているのとは別の内部生命的目的が必要だ。それがないと、かめはめ波を撃つか発狂するしかなくなるのである。

我々の世代から10年後ぐらいまでの世代において、ノストラダムスの流行の影響がありしかし実際は世界の破滅がこなくて、――みたいな言説がけっこう生産されるようにおもうが、ほんとにそういう風な挫折を味わった人ってどれくらいいるんだろうな。。なんか、「学生運動の挫折の記憶」と同質なものを感じる。つまりは、これは現実にはかめはめ波ではないだろうか。(わたくしが八〇年近辺生まれにどこかしら共感を感じるのは、サブカルチャーを20代後半から摂取し始めたことと関係があるとおもう。)

小山に登ろうとする連中やいろんなやつらのおかげで、のみならず、わたくしのようないまいちの頭脳のおかげで、職業研究者が、偉そうな職業になる進路を選択した人として、いまだに非難されることは多い。とくに近親者からそういうめにあっている学者達は多いであろう。かくしてルサンチマンをお互いにため込んでいるのでもはや三蔵以上に浄土は遠くなったといへよう。

だからといってあまりに紫金の鉢を配りすぎるのはよくない。最近何とか講座などで講演しても、案外面白かったですーみたいなこと言われることが多くなってきてこれはいかん。もっとわけ分からんことを言い続けなければ。質問コーナーで勝手な感想を長々という人がたくさんいてと主催者の方が歎くことも最近は多いのであるが、講演する人も大概客に分かりやすく喋ったりするから自分でもいけると思ってしまうひとが出てくるんだと思うのだ。勝手な妄想だが、2ちゃんねるとかで勝手なことを書いたことのある世代が定年を迎えてリアル空間に流れ出してる気がする。あるいは、演者のレベルがほんとうに下がっているかもしれない。そういえば、40代の頃、好き勝手喋っていたら10年間ぐらいやってたある高齢者向け講座をやんわり首になったが、基本お互いにそれでいいんだとおもうね。

もっとも、鉢をくばりながら天才はやはり天才の場合はある。わたくしはむかしから「ウエストサイドストーリー」の音楽はあまり好きではなかったのだが、最近少しスコアを読んでみたらやはり天才としか思えなかった。

気分

2024-11-09 23:27:27 | 文学


私の歌にも欲するところは気分である、陰影である、なつかしい情調の吐息である。……

(小さい藍色の毛虫が黄色な花粉にまみれて冷めたい亜鉛のベンチに匐つてゐる……)
 私は歌を愛してゐる。さうしてその淡緑色の小さい毛虫のやうにしみじみと私の気分にまみれて、拙いながら真に感じた自分の歌を作つてゆく……


――北原白秋「桐の花」


柄谷行人がむかし、志賀直哉は気分の作家だったと言ってて、要するに、モダニズムだのポストモダニズムというのは気分である。しかし、この気分があるからこそ、時代を超えて持続的である。

洗澡と抵抗

2024-11-09 05:16:16 | 文学


茅屋の裡に入りて見れば、妖怪一個も在らず、一邊の石祠の裡を覗き見れば、爰に三蔵は綑縛められて御座したり。悟浄走り入つて、縛を解下して、急ぎ行者が居る路傍へ皈りければ、行者懽喜び三蔵に向ひ、「此後齋を求め給はゞ我們に任せ置き給へ」と云へば、三蔵打點頭き、「我假令餓死するとも、此後自ら癖を要むべからず」とて悔みけり。
却説七個の女子は、衣服を鷹に取られて出る事能はず、水中に蹲り、個々鷹を罵り居たり。八戒門を排いて入り来り、是を見て打笑ひ、「女菩薩、我をも同く洗澡させて給はるべし」と、直綴を脱捨てて水中に飛入りければ、女妖等は大いに怒り、「此和尚十分無禮なり。出家人の身として、女人と同く洗澡せんとするや」と一齊に取囲んで打んと為るを、八戒原水練の達者なれば、水中に在って忽ち變じて一個の鮎魚と倣り、女子等が肌を探りて狂ひ廻れば、女妖等大いに困り果て、西へ追へども提當てず、東へ搜れども手を滑し、那方此邊と亂轉し、女妖們都て心倦み精勞れて詮方を知らず。


三蔵は比較的女の妖怪に欺されて縛られたりするのであるが、そしてそれが面白いのである。そしてここでは猪八戒がニンフのなかにドボンするのも面白いのである。この面白さに抵抗するのが、現代ならジョディ・フォスターみたいな女傑である。

マザーグースを引くまでもなく、豚が踊るのは面白いのだが、それが差別に転生したりするのはよく知られている。

大学の時、一度ジョディ・フォスターになった夢を見たことがあるのだが、朝から、世界中から悪口が聞こえてきて、昼の十一時頃にはもう狂いそうだった。これはたぶん、実際に近いという実感があった。彼女が性的マイノリティーで、養子をとったというニュースを昔きき、そうだろうと何の根拠もなく思った。

東大や京大で一番売れている本とかいう宣伝文句がよくある。そして、そういう本はストイックな本だったりするのであるが、資本社会のなかでは、それはつまり生協で一番売れている唐揚げ弁当に近づいていると言うことではなかろうか。昔通っていた大学の生協は**派だったので、新左翼が好きそうな本が異様に売られてたが、新左翼を唐揚げ弁当に近づけようとする態度だったといへよう。

唐揚げ弁当は、豚の踊りと同じだ。

ウルトラマンやウルトラセブンには反唐揚げ弁当的なストイックさがある。これが、唐揚げ弁当的なものに徐々に移行するのは当たり前だ。小学校一年生ぐらいのころを思い出してみると、ウルトラマンとかセブンの怪獣は地味で、ウルトラマンAのヒッポリト星人とか太郎のテンペラー星人みたいなどっからその声出てるのみたいなところとか、造形も自分の描く落書きの欲望にそってるようで面白かった気がする。口先は伸ばし、手先も無意味に伸ばす、みたいなものである。これは我が儘さというより、動物的なものの復興だ。

90年代、穂村弘がニューウェーブの短歌を共同体的な感覚をそもそも通過していないと言っていたと思うけど、いまから振り返ってみるとまったくそんなことはなく、むしろ共同体的だったような気がする。穂村氏はそれを〈わがまま〉な歩行だといったが、本当は動物的な歩みだったと思う。それはそうは見えなくても、共同体的なものの抵抗運動だ。

アメリカの共和党が民主党への抵抗の側面がもともと強いように、自民党というのはおそらくある種の抵抗勢力の集まりであって、そこをたんに大勢力のマジョリティみたいに考えてしまうのが間違いだ。抵抗者みたいな人たちが次々にヒヨってますます抵抗者面してしまう、今日もよくある現象をみてもそうであるきがする。

菊池寛記念館文芸講座

2024-11-09 04:21:55 | 文学


第二次大戦下の生物的・動物的なもの――花田清輝や太宰治の処世


サンクリスタル高松3階 第1集会室
本日、午後1:30から3:00





まだ朝顔が咲いたから夏だと思う

2024-11-08 23:16:27 | 文学


まだいける

民主主義に彼岸などない

2024-11-07 23:29:23 | 思想


根本的には、狂気は以下の限りにおいてのみ可能であった。すなわち、主体が自分自身の狂気について自ら語ることを許容し、自己を狂人として構成することを許容するような、 そのようなゲームの空間 (espace de jeu)、 そのようなゲームの余地 (latitude) が狂気のまわりにあった限りにおいて可能であった。

――フーコー『狂気の歴史』


トランプをみていると、狂気を鏡として、みたいな古典的?ありかたのほうがましなんだよ、パレーシアとかかっこつけているよりはさ、と言われている気がするのはわしだけではないであろう。フーコーの、パーレシア的なヘイトに対するパレーシアの欲求は、我々が当初考えていたのと違い、はたしてそこまで勇気の問題だったのであろうか。そうは思えない。

若い頃の論文でやたらスキーマを連発して常識破壊を言っていた人が家族をもったとたんにすごく平凡になり、そのあまりの予想通りの様に笑いもでないような、――至極当然の出来事というのものは存在する。制度をマジョリティのでっち上げた何かの紙細工のように想定しているから、自らがマジョリティになったと云う自覚によって、それは「仕方がない」行動に変わってしまう。そもそも制度はマジョリティが作っているものであろうか?作っているとしたらどのようにして?それを模写する胆力も勇気もないのに何が出来るというのであろう。

今日の短歌史の授業は、さすがの石川啄木の威力でもりあがり、やはりこやつはすごいなとおもったが、やつが短歌でやってしまったように見えることが決して散文の代替物にはなりえないことが、いまのツイッッターの世界でもなかなか意識されていない。そもそも啄木はマイノリティではないのだ。一種のトランプなのである。啄木が必要なのは「批評」だといいながらそれを出来なかったことをもっと重要視するべきだ。

啄木は、巨大な「時代閉塞」に自らの巨大さで立ち向かおうとしている。そういえば、トランプのよこにいた巨人は息子のバロンさんであったが、いまわたくしが、自らの小物臭を必死で彼らに送っている次第である。このような戦い方もあるのである。

巨人と云えば、思い出すのは70年代の少女まんがである。わたくしも子供の頃、たいして自分で読んだこともない少女まんがの世界に憧れたものだが、とにかく邪魔なのが、其の中に出てくる男である。彼らはだいたい13等身ぐらいある。父親が長野のほうの校長住宅かどこかにいたときに、その住宅には昔の住人のものであろう、いくらか少女まんがが紐で縛られて残っていた。こんな面白いもんがあったのかと思てちょっと拝見したのであるが、そこに出てくる13等身の男が唯物史観とかマルクス語ってデートだかオルグだかわからんくなってるのがいま思い出してもおかしい。わたくしの記憶だと、そのマルクスだか弁証法とかに女の子が本気で感動してた。いまもこういうのが現実であったならばわたくしなんぞも三回ぐらい結婚しているのではないだろうか。

むろん、そんな巨人は、70年代においても絶滅危惧種だったし、学生運動の時代においても大した存在ではなかった。権力の諸要素と同様、玉突き事故の要素に過ぎない。戦時中の帰趨を調べれば調べるほど、玉突き事故がそのつど魔改造された空間で転生するみたいなことが連続的に起こっている。それは本当に、絶望的な事態で、――ヒトラーを嫌えばおさまるものではない。しかし当時の人はそういうは思いながら、それを認識してもなお、みたいな感覚をもって戦後に臨んだ。「第二の青春」じゃなくてほんとは「第二の転生」みたいな気分だったはずなのである。そこで青春とかいっているのはまだ自分が巨人だと思っている証拠である。

みんな云ってるんだろうけど、この程度のガラガラポン的な状況で終末観を感じている人は民主主義者ではない。民主主義世界に彼岸などない。

しかし、我々がそんな煉獄的状況に堪えられるわけではなく、いつも我が国であったら伝統を利用して馬鹿なフリをしながらいつのまにか元気になってしまうという精神的詐欺の有効性を実証してきた。天皇だって、その一種なので、「王」のふりを自虐的に模倣するのが我々臣民であった。和歌や源氏物語の大衆化もそれに一役買った。学生に勧められて「プロメア」というアニメーション映画を見たのだが、過去のたくさんのアニメーションへのオマージュで作られていた。火をつける人と火を消す人が合体するとすげえみたいな話だったけど、これはたくさんの引用を行いながら作品を作るときの精神的な作法でもあって、主人公が言っているように、自分は「馬鹿」だと言い張る態度によって成立する。我々がいざとなってもますます「馬鹿」的になる秘密もこのことと関係がある。しかしそうでもしないと、彼岸を求めて辛いのであった。我々はたぶん、浄土思想の時代のつらさを忘れかねているのである。

帰ってきたトランプ大統領らしいので御飯を炊いた

2024-11-06 23:12:39 | 文学


「実はだな、かけたいのはグランビル大統領の生命保険なんだ」
「確かに、変わってますね」
「いやいや、モレンス所長。英国では国家元首にしばしば保険を掛ける。戴冠六十周年式典の例だよ。目下の大計画で大統領に万一のことがあれば、私は破産する。もしこの件が駄目なら、英国で保険を掛ける」
「もちろん引き受けますよ。だって正当な取引ですから。同類の保険料は六パーセントです。で、保険金額は」
「三百万フランだ」
「男爵、ご冗談でしょう」


――フレッド・M・ホワイト「悪の帝王」奥増夫訳


おれが、不正投票以前に、人間が不正なんだよ、とか言い始めたらみんな武器を取ってくれ(恋唄)

吉本隆明が「恋唄」を歌っても、なかなか武器を取る奴はいなかった――いや、いたわ。結構たくさん。

ハリスに限らず、日本の民主共産どこでもそうだとおもうが、その平等的なものを発散するキャラクターが、まがりなりにもボスを選ぶ民主主義と相反してきている、スターリン万歳とかいいはじめたらおれを何かではたいてくれ。

今回負けてしまったハリス氏はバイデンの後ろでニコニコしてたときの方がなぜかボス感があった、――とかいうとジェンダー構成的に問題あるんだろうが、かくいうわたくしも副委員長みたいなときがいちばん生気があるのだ。たぶん、副委員長というのは、雑用を飲み込むように処理するのに長けているタイプである。委員長は、飲み込むのではなく、啜って食べる。

俺以外の日本人のうどんや蕎麦の食い方を見ていると、やつらは旨いだしがあれば、なんでも啜り飲み込む蛇みたいな奴らであると思わざるを得ない。トランプが大統領になりそうなので、御飯を炊いた。

極私的近代の超克論

2024-11-05 03:29:39 | 文学


モナ・リザの唇もしづかなる暗黒にあらむか戦はきびしくなりて

斎藤茂吉は論争の中ではかなり口が悪いひとで、思うに、彼の実相観入は、対象と一如となってしまうところがあるわけであるから、例えば、プロレタリア文学時代に批判を受けた五島茂になんかにはある意味シンクロしすぎて、その反発から「模倣餓鬼」と口走っていたのではあるまいか。短歌史を講じてみて感じるのは、やはり小説や詩に比べてそこに「批評」を導入するのが難しいというかんじであるが、――しかしこれこそ我々が自力で批評していない証拠なのではないか。実相観入なんて半分、自力ではない典型例である。

だいたい結婚すると、細がテレビ観ながらお菓子を食べているという電波を受信する生物に変態するものであるが、実際は、実相に嵌入されているのは我々の方である。

こういう自明の理が分からない文明は、インターネットを用いてもともと実相観入している世の中を線で繋いで見せたりするもんだからおかしくなるのである。ブリコラージュがあり合わせのものでつくってしまうことであるなら、いまや密室に閉じ込めて電波を遮断でもせんとそれができきないという転倒した状況だ。

映画「猿の惑星」シリーズも好きなので昔から見ているけど、猿がなかなか音楽とか文学をやり始めねえんでこの西洋猿=体育会系=理系映画の野郎め、とにらんでいる。新しい「猿の惑星 キングダム」もみたけど、あいかわらず、テクノロジーと革命(暴力)のことしか、猿も人間も考えていない。鷹をてなづけるまえに恋の歌を唸るだろう普通。

そういえば、「猿の惑星」においては、食糧の問題がちょっと曖昧になっているように思う。その猿のモデルと云われている日本人が、炭水化物に炭水化物を重ねて食事しがち(ラーメンライスとか)なのは実に異様というのは、前から聞くけど、正直、わたくしたくさんのお米と漬け物だけみたいなときが一番体調はいい気がするのだ。人生的にどうだかはしらんが。。。たとえば、仏蘭西料理のコースなんかでも、パンがうますぎてたくさん食べてしまい、その後で出てくるメインディッシュとかスイーツは意識なくしながら必死に食べるみたいなことになっている。自分的には、パンの後に納豆と御飯を出して欲しい。ちなみにわたくしはお好み焼きとお寿司があまり好きではない。嫌いではないんだが。二十歳までにあまり食べていないので、食べ物として体が認識していないのではなかろうか。

水木しげるの漫画は、コマのあいだに独特な走馬燈みたいな間があって動きがないようで動いているようなかんじが、アニメーションになると動いているだけになっている。我々の生は、このように、和歌の如く――、かくかく動いているのを、なめらかに動かされている。

ドベゴンズドジャースベイスターズ勝ちにけり世はいつも花盛り

たしか明治末期の、尾上柴舟の「短歌滅亡私論」に、もはや「なり」とか「なりけり」で考えないんだよおれらは、みたいなところあったとおもうけど、じっさいのところどうなんだろうな、「なり」とか「なりけり」で考える人はいたような気がするのであるが。いまも使えばそう考える人が出てくる。

その分際より仕過ごす物

2024-11-04 19:28:55 | 文学


惣別、傾城買、その分際より仕過ごす物なり。有銀五百貫目より上のふりまはしの人、太夫にもあふべし。二百貫目までの人、天職くるしからず。 五十貫目までの人、十五に出合ひてよし。それも、その銀はたらかずして居喰ひの人は思ひもよらぬ事、近年の世上を見るに、半年つづかざる人無分別にさわぎ出し、二割三割の利銀に出しあげ、主人・親類の難儀となしぬ。かやうになるを覚えての慰み、何かおもしろかるべし。

トノサマバッタともなると殿様であるから、「その分際より仕過ご」すこと気にせずともよいのであろうか。そんなことはなく、そもそも人間の認識にその「分際」があるはずもない。しかし、その分際を仕事に関係づけられてしまう人間――たとえば教師なんかはつい殿様じみてくるものである。

小学校の先生に限らず、先生たちは、教室の中のボス猿たるために相手の戦力を瞬時に見極める力に長けたヤンキーみたいな能力がひつようなところがあり、これはむろん相手の能力を伸ばすとか正確な把握を行うこととは全く別なのだが、それがだんだんと本人のなかでは同一視されてくる。これが危険である。人が予測を超えた成長をしたときにそれをなかなか認めたがらない葛藤を抱えている傾向がある。小中の先生にかなり広範にみられる現象のような気がする。高校だと、大学入試の結果にただ喜ぶようなロボットが生産されて、そもそも生徒への観察力を去勢され、上のような葛藤すら存在しないような人間が時々現れている。そして頼みは自分の学歴とかになっている醜悪さである。

だいたい、先生とか親なんてのは、子供の能力を正確には評価出来ず、未来を信じるみたいな態度を見せながらだいたい適当な判断を下している。さぼっているわけではない、赤の他人というのは、本人と同様、その程度なのである。しかしそれが子供の未来を勝手に決めるとなったら話は別で、子供は彼らをはやめに精神的に見捨てておく必要がある。必要があったら縁を切る必要だってあるのはそのためだ。だいたい、ひとは自分と同じ職業に向いているか否かでしか評価を下せない。学校の先生も例外ではない。小中接続とか、中高接続とかもっともらしいまぬけな試みがあるが、――根本的には、小学校の先生によって優等生と見做された人間が中学生ではそうではない、といった事情があるからだ。大学に入りたての大学生をみて、高校の優等生は高校の先生に幾らか似ているとおもったことは一度ではない。

わたくしは、小学校の先生と大学の先生とウマがあったが、中高と思春期だったから、だけではないと思う。たぶん、小学校の先生となぜうまがあったのかといえば、彼が作家だったからに過ぎない。だから、一見、わたくしが小学校の先生に向いているはずであるという認識が周囲に生じていたのは無理もないが、小学校は楽しかったと同時に地獄的で二度と戻りたくない。かように、わたくしにかぎらず、教員を目指す学生の中には、自分を評価しなかった校種へのうらみがある学生もいて、中学校の小学校化、小学校の中学校化、などなどを思い描いている者も実際にいる。いろいろ思惑はあるわな、と思わざるを得ない。

世にこの道の勤め程ほどかなしきはなし

2024-11-03 17:13:24 | 文学


 身にそなはりし徳もなくて、貴人もなるまじき事を思へば、天もいつぞはとがめ給はん。しかも又、すかぬ男には身を売りながら身をまかせず、つらくあたり、むごくおもはせ勤めけるうちに、いつとなく人我を見はなし、明暮隙になりて、おのづから太夫職おとりて、すぎにし事どもゆかし。
 男嫌ひをするは、人もてはやしてはやる時こそ。淋しくなりては、人手代・鉦たたき・短足にかぎらず、あふをうれしく、おもへば世にこの道の勤め程ほどかなしきはなし。


西鶴とかでも、「世に*程***ものはなし」、みたいな言い方が出てくるんだが、学校教育で言うところの中心文的なものではないし、主題ですらない。こういうのはおもったより近代でも実際あるんだろうと思う。真面目なふりの仮面、ふざけたフリの仮面、そして素顔はある程度空想である。近世も近代も文学がメディア化してるために起こる困難はかわらない。

そういえば、ベートーベンの時代は敵はナポレオンの敵や共和制の敵であった。しかし、敵が敵対する人間や怪物ではなく、メディアや批評になってからはおなじエロイカ的なものも拗くれてしまった。「英雄の業績」というセクションを持つR・シュトラウスの「英雄の生涯」、まだ作曲者が34だかだというので、自分のことを曲にしたのではない、という説があるが、いまでも「英雄の業績」とか30代で自分を褒めている奴はうちの庭の蛙よりも多く存在している。もはや、ここまでくると、敵が批評家やメディアですらない。

さむくなってきましたね

2024-11-02 23:42:37 | 大学


ひさしぶりの休みなのであるが、いろいろ仕事が溜まっている。

卒論なんてやり始めればなんてこたないんだよな、とか学生に指導しているそこのあなた、ほんとにそれに当てはまっているのは、お風呂入るとか、年末調整ぐらいである。嘘つくな、と言いたい。