山口真由氏の「衛府の七忍」もすごい作品である。それにしても、このように卑猥さと残酷さとユーモアが混ざってしまったような私たちの感性はどこからきたものであろう。この感覚は、劇画の時代からと言えばそうであるが、それがより美的にスタイリッシュになったのは、先日亡くなった篠山紀信の写真あたりからではなかろうかという感想である。
篠山紀信って南沙織と結婚してたのかしらんかったわ。
劇画家の宮谷一彦なんかは、若い高校生と結婚していた。しかし篠山氏はアイドルと結婚している。これは大きな違いである。
テレビが野球のニュースになったので、つい老眼鏡を外して移籍した大谷君の姿を見ると、やはり移籍したのはドラゴンズにみえる、――というのは社交辞令で、ドアラ?いや青いマリモ?にみえる。しかしこのぼやっとした世界がないと人は生きていけない。BBCのうつした能登半島地震の映像があまりに美的で喧々諤々と議論が巻き起こっていたが、あれは美的であると同時に、背景がぼやっとして抜けがある。本当は被災者達にだってそれはあるのだ。
一方で、我々は分単位で指示を守れと強要する世の中(というドグマ)に対して、時間を節約とかなんかと、作戦をねったふりをしているが、これも上のぼやっとしたものへの希求と関係があると同時に、我々のずるさと関係があるのは無論である。例えば、「タイパ」というのは、たとえば面前でいじめとかがあった場合に映像を早送りして日常に帰るのに似ている。「コスパ」もだいたいは他人に尻ぬぐいをさせる方便だし、根本的に逃亡なのである。人生を走馬燈に変える、もうすぐ死ぬんで寝かせろみたいな、死んだふり、である。
昨日、神坂次郎他の『画家たちの「戦争」』を眺めていて、これが揃いも揃ってリアリズムを崇高さに逃がそうというかんじであった。宮本三郎(宮本陽一郎氏の祖父)の特攻作戦の絵なんか、いまでも通用しそうな凄みがある。これらはしかし、映像の時代にあっての「絵」なので、根本的にストップモーションみたいなもの――小河原脩がそういっていた――なのであろう。だからそれはタイパよりもタイパな行為である。タイパ=リアリズムというべし。