★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

タイパ=リアリズム

2024-01-05 23:12:24 | 漫画など


山口真由氏の「衛府の七忍」もすごい作品である。それにしても、このように卑猥さと残酷さとユーモアが混ざってしまったような私たちの感性はどこからきたものであろう。この感覚は、劇画の時代からと言えばそうであるが、それがより美的にスタイリッシュになったのは、先日亡くなった篠山紀信の写真あたりからではなかろうかという感想である。

篠山紀信って南沙織と結婚してたのかしらんかったわ。

劇画家の宮谷一彦なんかは、若い高校生と結婚していた。しかし篠山氏はアイドルと結婚している。これは大きな違いである。

テレビが野球のニュースになったので、つい老眼鏡を外して移籍した大谷君の姿を見ると、やはり移籍したのはドラゴンズにみえる、――というのは社交辞令で、ドアラ?いや青いマリモ?にみえる。しかしこのぼやっとした世界がないと人は生きていけない。BBCのうつした能登半島地震の映像があまりに美的で喧々諤々と議論が巻き起こっていたが、あれは美的であると同時に、背景がぼやっとして抜けがある。本当は被災者達にだってそれはあるのだ。

一方で、我々は分単位で指示を守れと強要する世の中(というドグマ)に対して、時間を節約とかなんかと、作戦をねったふりをしているが、これも上のぼやっとしたものへの希求と関係があると同時に、我々のずるさと関係があるのは無論である。例えば、「タイパ」というのは、たとえば面前でいじめとかがあった場合に映像を早送りして日常に帰るのに似ている。「コスパ」もだいたいは他人に尻ぬぐいをさせる方便だし、根本的に逃亡なのである。人生を走馬燈に変える、もうすぐ死ぬんで寝かせろみたいな、死んだふり、である。

昨日、神坂次郎他の『画家たちの「戦争」』を眺めていて、これが揃いも揃ってリアリズムを崇高さに逃がそうというかんじであった。宮本三郎(宮本陽一郎氏の祖父)の特攻作戦の絵なんか、いまでも通用しそうな凄みがある。これらはしかし、映像の時代にあっての「絵」なので、根本的にストップモーションみたいなもの――小河原脩がそういっていた――なのであろう。だからそれはタイパよりもタイパな行為である。タイパ=リアリズムというべし。

酷暑で呟き

2023-08-21 23:42:46 | 漫画など


夏休みは暑すぎるから休んでいるのだが、なんだろ、我々は休むの能力が下手になっているのにくわえて、そもそも休んだからといって休みにならない気温というものがある。

庭の雑草が暑すぎて枯れてきている。太陽最強

なにゆえわしの庭の蛙はクーラーなしでも大丈夫なのか。100字以内で答えよ

蛙は肺で呼吸せず、皮膚から酸素を吸収することができます。水分を保持しやすく、湿度が高い環境を好むため、庭の湿度が高い場合、クーラーなしでも適応できる可能性があります。(チャットGPT)

スケバンで可

「スケバン刑事」というのは原作しか読んだことがないが、すばらしい作品であった。この前YouTubeで斉藤由貴主演の第Ⅰ話だけみたが、楽しい作品であった。とにかく、スカッとすることが世の中大事である。で、作中で「まさかスケバンのお前が刑事だとはだれも思わないからな」と脚の細い男が言ってたけど、結構、現実のスケバンというのは警察的権力だろうと思われる。

がんだむ

2022-07-14 23:16:50 | 漫画など


今日、三十年ぶりぐらいに『少年ジャンプ』というのを読んだんだが、むかしながらのざらざらの紙にある種かすれた印刷で、あのサイズ。子どもが作品の線に合わせて手が動いてしまう、つまり落書きを誘発する、物質感がある。単行本で小さくキレイになった作品からはそれはかんじない。スマートフォンで読む場合はもっとそうだろう。

新連載の『ルリドラゴン』という作品が面白そうだな。。。

『宗教問題』のオウム特集を読みふけってしまい仕事をさぼった。

「ガラスの脳」と樺美智子

2019-08-13 23:04:02 | 漫画など


手塚治虫に「ガラスの脳」(1971)という短篇があり、たしか映画にもなった。交通事故にあった母親の影響なのか、昏睡しながら成長する少女の話で、雷鳴の轟く夜に突然彼女は目覚める。赤ん坊から思春期までをたった5日の速さで生長した彼女は失恋やなにやらをすべて経験して再び眠りにつく。

これは恋愛を描いた作品であり、我々の恋愛が、小児から死までを一気に経験するということを教えてくれるという意味で、啓蒙的な作品である。恋愛の前後には虚無がある。

書棚の中から樺美智子の『人しれず微笑まん』という遺稿集が出てきたのでめくってみた。教育実習での生徒の感想まででてきて、用意もなく死ぬのは本当に危険だなと思わざるをえない。お母さんが編者になっており、父親が序文を書いているので、樺美智子の小学生の時の日記や作文なども、両親が選んだのかもしれない。父親の序文に、「最善の方法で育て上げた」娘がこんなことになってしまったのは「時代の宿命」だとあった。確かに、彼女の中学生の時の読書の記録を見ると、「アクロイド殺し」や「女の一生」、シェイクスピアの諸作にまじって、「山本有三全集」とあって、「これは三回目」とか書いている。確かに「最善」なのだ。

大江健三郎の「セヴンティーン」の落ちこぼれ主人公の周りには、こういう優等生がいたのであった。知らんけど……。この落ちこぼれ主人公は、赤ん坊からやり直そうとしているところに大きな特徴がある。もう一人の美智子さんへの幻の恋愛として?、それを執念のように繰り返す。虚無が前後にあるから繰り返さないと自分が無になってしまうからである。

樺美智子の遺稿集を読んでいて感じるのは、彼女は優等生であるせいか、こういう「やり直す」という感情がなく、最初から人格の完成への意志を前提として行動しようとしているということである。しかし、本当はそんなはずはない。それが表に出てこないのが優等生なのだ。彼女の時間意識は、マルクス主義の「歴史的必然」みたいなものとかなり相性がいい。

だからといって、わたくしは、樺美智子みたいな優等生はダメだと言いたいのではなく、その逆である。山本有三はよまなくてもいいかもしれないが、なんか読んどけよと言わざるをえない。子どもは上記のような恋愛しかしない。

女と並べてロミオどのゝ黄金の像をも建て申そう、互ひの不和の憫然な犧牲!
物悲しげなる靜けさをば此朝景色が齎する。日も悲しみてか、面を見せぬわ。いざ、共に彼方へ往て、盡きぬ愁歎を語り合はん。赦すべき者もあれば、罰すべき者もある。哀れなる物語は多けれども、此ロミオとヂュリエットの戀物語に優るはないわい。


――「ロミオとヂュリエット」(坪内訳) 


恋物語で解決するのは、せいぜい良家の諍いぐらいである。

communication

2019-08-12 23:26:51 | 漫画など


『堀さんと宮村くん』というマンガがあるが、嘗て学生に教えて貰った。面白い作品だったが、考えてみると、思春期(に限らないが)の恋愛は、思いが溢れ出てしまうようなもので、それをこんな感じで三角関係のコメディーにしてしまうと、かえって現実が辛く成りはしないかと心配である。コメディーは、――漫才が典型的にそうであるが直ぐさま反応してくれる相方が居り、落語だって、聴衆の反応はすぐある。(ないときは失敗である)

2(5)ちゃんねるにしてもツイッターにしても、笑いが尊ばれるのは、その反応が命のシステムだからで、――基本的に全体として喜劇的である。

授業でもそうである。そこで「双方向性」がどうであるとか言ってた人の大概は狂っていたが、なぜかというと、そんなことが目的化すれば、授業は基本的に喜劇になってしまうはずだからである。喜劇とユーモアは根本的に違い、前者はコミュニケーションがある種のタイミングなどの妙を備えているときには直ぐさま成立してしまう。ダウンタウンの漫才がそうであった。彼等の漫才が基本的にそういう虚無をはらんでいることになかなか気づかなかった我々は間違っていた。

『アルジェの戦い』(1966)というのは今も有名な映画であるが、独立運動のテロの連鎖は、連鎖ではなく、何故か起きるみたいな描き方がされている。特に最後の大衆蜂起は、前衛たちの動きとは関係なく起こっていたのである。連合赤軍が山中でごたごたやっている間に、東京で関係ない巨大デモが起こったようなものである。それらはコミュニケーションの所産ではないことを示しているようなものだ。

わたくしがこの映画で一番印象に残ったのは、テロを弾圧しにきたフランス軍の現場指揮官が、「我々にはナチスに対するレジスタンスに入っていたものもいるし、収容所から生還してきたものもいるのだ」と言って自分たちを正当化してたことである。これはわたくしには方便に見えなかった。たぶん本気なのである。やられた奴は絶対に正しい、これも一種の反応であるが、思いが溢れ出てしまうものだから、コミュニケーションを拒絶する。

モンタージュと山口六平太

2019-08-06 23:12:02 | 漫画など


前衛運動というのはさまざまあったが、ピカソの「ゲルニカ」とマリーナ・アブラモヴィッチの「リズム0」がどちらが芸術なのか、みたいな問題は恐ろしくて建てられない。そこで、あまり議論を過剰に行わないことが習慣化しているのであり、政治的な季節になると、ちょっと芸術愛好家たちは困ってしまうのである。

小生の家にはなぜか『山口六平太』がほぼ全巻そろっているのであるが、いつ読むことになるのかわからない。ちょこちょこと読み続けているのであるが、なかなか面白くなってこない。

エイゼンシュタインの『十月』に、皇帝の寝室を冬の宮殿に乱入した革命軍の一人が見つける場面がある。皇帝の「おまる」?とかいろいろ出てきてちょっとエロティックな場面である。この映画はスターリンの意向で半分ぐらいになってしまっているらしく、どうも流れが悪い。時々過激なモンタージュがあるが、そこでもなんとなく流れが止まる感じがある。(とはいえ、わたくしが観たのは、60年代のショスタコービチの音楽付きのバージョンで、しかもこれがどかどかウルサい交響曲第12番を中心としたもので、ウルサいこと限りない。これが映像を邪魔している)

正直なところ、――『十月』には、帝政ロシアの宮殿のなかのブルジョア的なものと、労働者と軍人たちの荒れ狂うしかめ面の対立があるのであり、物語に逆らってかえって前者が美しい感じがする。モンタージュというのは、本当に新たな意味を生み出すのに適しているのか?対立がかえって深まるのではないか?という素朴な疑問が頭をかすめる。モノは本当に断片化できるか――

我々の文化は、確かに対立によって誕生する。我々が、ただ生きていてもいいじゃないか、という主張にどこか反発を覚えるのはそのせいもある。

山口六平太は、対立のなかでそれを上手いこと戦争回避をするように立ち回る人である。絶対にこういう人間はいるのであるが、こんなに有能な人はいない。むしろ、有能でない人がゆっくり人知れず行動しているのが本当のところである。最近は、特に絶滅種でもある。わたくしは、それが痛感されるから、このマンガをあんまりよみたくないのかもしれない。それに、エイゼンシュタインのえがく「おまる」がこのマンガにはない(いまのところ)。ようするに、このマンガ内での対立など、ほとんど大したことはないのである。

いくら藤村の羊羹でもおまるの中に入れてあると、少し答えます。そのおまるたると否とを問わず、むしゃむしゃ食うものに至っては非常稀有の羊羹好きでなければなりません。あれも学才があって教師には至極だが、どうも放蕩をしてと云う事になるととうてい及第はできかねます。

――漱石「文芸の哲学的基礎」

よろめき

2019-08-04 23:21:35 | 漫画など


手塚治虫に『よろめき動物記』という作品集がある。東京オリンピックの年に『サンデー毎日』に連載された作品で、オリンピックをからかった作品がいくつかある(「犬」や「カッパ」、「サンマ」)。手塚は、見開き二ページでもちゃんと話が落ちていて、すごいと言わざるをえない。みんなが言うことだが、手塚漫画の面白さは、画の面白さもあるが、頭のいい話を読んだときの面白さである。『ブラックジャック』ってちょっと説教臭くてあまり好きじゃないが、とてつもない能力だなとは思うのである。

とはいっても、やっぱり手塚の本領は、『アドルフに告ぐ』とか『火の鳥』とか『ブッダ』みたいな、まるで「世界観」の交響曲みたいな長篇にある。宗教的と言ってもいいかもしれない。無論、手塚のSF好きはそんなことと関係している。

ただ、そういうときに、上のオリンピックをからかうような問題を長篇でなかなか展開できないのではないかと思うのである。

小説家や漫画家も含めて、われわれにはどうも苦手な分野というものがあるのではないか。

この前、『実録・連合赤軍』についての『情況』の特集を読んでいて思ったことでもある。つまり、我々はネチャーエフ事件みたいなものを『悪霊』に仕立て上げる文化をもっているのかということである。オリンピックも、テロ事件も、日韓の争いもこれに近い問題なのではないか、とわたくしは思うのである。これらは宗教やSFではない。苦手な科目は、頭が働かなくなる前に勉強あるのみだ。

大きい犬とか

2019-07-15 19:54:58 | 漫画など


スケラッコ氏の『大きい犬』はなかなかよかった。昨日の話(動物愛護精神の危険性)ではないが、動物は大きい必要があるのではないかと思う。特に犬は、近代の諸表現によって、人間のような意味に塗れてしまっており、その意味を振る払うためには巨大化でもしてもらわなくてはならなかった。

大仏がでかいのとはちょっと違う。この漫画では犬はそれこそ住宅ぐらいの大きさがあるわけで、これは犬ではなく「居場所」なのである。この犬は何百年も生きているのかもしれない。というわけで、この本ではおおきく時間と距離を越えて人が移動することのお話が続くのであった。――若い作者かどうかは分からないが、人間、高齢化も何もかも何とかしてしまうのであろう、と思わせる話であった。

その大きな犬をみていると、なぜか故郷のことを思い出した。わたくしにとっては山が故郷なので、その犬は山にみえたのかもしれない。

「七福神再び」という話も結構面白くて、父親が実は恵比寿だった話で、――痴呆かとおもいきやそうではなく、さいごに他の七福神たちと旅立って行ってしまった。親というものはそんなものかもしれない、と思わせる話である。最近は、死者を「仏さん」とはいわなくなった。「天国で見守る」みたいな感じになっていて、あまりにも偽善的な……。靖国に帰る人たちもそうだが、そこにはイメージが決定的に欠けている。帰っても死者は救われまい。(その意味で、三島由紀夫の「英霊の声」のアイロニカルなやりかたはすごかった……)恵比寿さんのイメージで少なくとも生者は救われる。

この前読んだ、「ホリック」という力作は、異界もの?なのになんとなく現世に拘りすぎていてるように思われた。現世では魔法が必要になり、そうすると理屈がいるのである。そういう理屈は、我々の苦しみそのものであるから、現実離れを起こした感じがしないのであろう。

付記)考えてみると、英霊の例はちょっと違った。例えば戦争で死ぬことがなぜ悲惨かといえば、決して成仏とか昇天とかのイメージで救われないというのがあるわね……。ばらばらな肉塊になったり、飢餓や疫病で土塊にまみれてはなかなか救われまい。世界大戦は宗教も破壊したといえるのではなかろうか。

穴と星

2019-06-30 23:07:39 | 漫画など


以前学生に教えてもらった『メイド・イン・アビス』という作品は、絵も綺麗だし話も面白そうである。第一巻しか読んでないので、何ともいえないけれども、こういうものを読んで育った若者たちは、きまじめにはなりそうである。

この話は、地の果てまで開いた穴に、穴の底まで行って帰らない母親を探しにいく少女が主人公であり、――普通に考えて、胎内回帰のお話みたいに思えるが、もう十分幼い主人公で、しかも少女なので、少女が胎内回帰することで死にかかりながら大人びるという、まあ、今はやりのマザコン的なものよりはましな感じになりそうである。

――という感じで期待したい。のであるが、穴に下降すると圧か何かで死を意味するという設定であるので、死ぬことが生きることでみたいな話にならなければいいなと思う。横に広がる外には「世界」がなく、自分が何故生まれてきたのかという垂直の穴が謎として「世界」なのである。しかし、本当は謎でもなんでもない。事実は既にあるからだ。

今日、食事をしながら「巨人の星」を観てみた。主人公は穴ではなく星を目指すことになっているが、それは本当の星ではなく、巨人のスターという意味であって、ある意味、巨人に対する滅私奉公の世界である。奉公する主体が異常に主体的なだけにそう見えないだけのことだ。(もっとも滅私奉公というのはそういうもんである)このスターになる道は、自分の出生を探る旅よりも本質的にどうなるか分からない世界である。穴に回帰することは自分とは何かという解答を探す旅であるが、星への旅はそうではない。前者は受験勉強的であり、後者は論文のようなものだ。「巨人の星」は、ナンセンスなお話として伝説になってしまっているが、そのナンセンスさはこれを観ているこどもたちにとって、解答がない世界を旅するみたいなニュアンスがあったに違いないのである。今日観たのは、花形が練習で打った場外ホームランを球場の外にいた左門豊作が打ち返す場面である。ありえないことのように思うが、確かに、現実というのは、そんな驚きをしょっちゅう経験する世界である。

と思っていたら、トランプが北朝鮮の土を踏んでいた。

文章としての絵

2019-06-29 23:10:00 | 漫画など


宮谷一彦の『性蝕記』はCOM増刊のものをどこかで買って持っているのであるが、読み終わるのに結構時間がかかった記憶がある。「太陽への狙撃」という当時の学生運動をネタに描いたものなんかも、『共犯幻想』などがスピードを持って読めるのに、宮谷氏を読むのは時間がかかる。漫画の世界を変えたといわれている宮谷氏の絵であるが、たぶん漫画を読む時間を変えてしまっているのである。一つ一つの絵を文章を読むスピードで読まなければならないのがこの人の絵なのである。いまよむと、せりふやト書き風のせりふに取り立ててすごく意味深なことが書いているわけではなく、どちらかという絵の方が文章なのである。

今読んでみると、蒸気機関車と自動車と老婆と女の世界を描きながら、自らのふわふわしたユーモアでそれらから身を引きはがしていこうとするあがきが見えなくはなく、それは氏なりの「生」きることだったように思えてならない。

それにしても、応援メッセージを寄せている田村泰次郎の文章は気の抜けた感じである。もっとも、この時期に田村泰次郎に頼めば、こんなことになるのは目に見えている。当時の若者たちは、戦中派のふがいなさに憤っていた面もあるのであった。


捕物帖とハイウェイ

2019-06-26 23:51:35 | 漫画など


石ノ森章太郎の『佐竹と市捕物控』は、傑作として知られているが、読んだことがなかったのでこの前「闇の片足」という短篇が入っている本を読んでみた。流れるようなカメラワークですごかった。

わたくし自身は、あまり時代物を好まない。そこにあるナルシシズムが何かを納得するまでは心置きなく楽しめない気がする。鷗外の作品にすら感じるそれは何だろう。芥川龍之介はそこを許さず、時代小説から保吉ものに至るプロセスで――一生をかけて問題を近代に戻そうとしていたのではないかと思う。

「蒲団」以来、どことなく隠語的にものを語る現代小説に対して、確かに作家たちは時代物では生き生きとしている面がある。これはどういうことであろう?「蒲団」が抑圧していたのは、我々の内面そのものなのだ。思うに、佐竹や市といった、秘密警察的なもの(でも半数は案外大概公務員)が我々の内面の役割をしており、現代では、ウルトラマンとか仮面ライダーでない限りはそれが許されないというのはあるであろう。芥川龍之介は古典の世界を使って執筆する自らにそういう内省を仕掛けていたのだろうと思う。「羅生門」上の内省はそういうものではあるまいか。

芥川龍之介の見たものは、想像以上に動物みたいな我々の姿であった。それを人間と見るためには、世の中を見方を変えれば変わる影のようにみることが必要に思われた。

トム・ハーディでがでていた『Locke』(オン・ザ・ハイウェイ その夜、86分)は、極めて知的な作品であった。自分を捨てた父親を反復しまいとして、浮気相手の出産に立ち会おうと、仕事と家庭をほっぽり出して高速道路を走る男が、車中でいろいろと電話するそれだけの話であるが、話がでかい。棄て子を行った父親の反復が問題になっているから、どう見ても「オイディプス」の話で、反復を避けようとしても、結局男は父親を反復してしまうのであった。彼は仕事の上でかなり有能な男で、次の日に迫った仕事を放り出して会社から首を宣告されるが、代わりの人間が来る前に、車の中からちゃんと部下に仕事の指示を送り、段取りをなんとかしてしまう。裏切ってしまった妻やこどもたちへの対応も合理的にやりおえて、もとの日常に帰れるはずである。心理的に不安定な浮気相手を説得し帝王切開を認めさせる。しかし、

――結局、妻は彼の一回の過ちを許さない。そうすると、彼は子どもたちを事実上棄てたことになり、現場を放り出し次の人間の仕事を妨害した彼を会社の上層部は想像以上に激怒している事態に直面する。全てが崩壊する。結局、浮気相手は無事に出産。これは希望でも僥倖でもない、しかし、父親の反復であるから不条理でもないが……。我々は自分の意思で人生を生きているつもりであるが、そうではない。しかし、全てが滅茶苦茶ではなく、きちんと自分の行動に原因がある。ただ、それを認識しながら生きることはできない。この映画は、その困難を知っている者がつくっている。作品のなかに少し規則正しくあらわれては消えるハイウェイのライトの描写はそんなことを思わせた。

石ノ森の作品は、闇が多いが、わりと人生は明瞭のように思われた。これが我々の労働の世界である。闇の中からぴょこっと人生が出る。

水棲人と自転車

2019-06-25 22:34:46 | 漫画など


星野之宣の『ブルーシティ』の水棲人は、「第四間氷期」のそれに比べてガーゴイルのような容貌をしている。「マンガ夜話」で岡田斗司夫が言っていたが、SFには根本的に選民思想的なものがあるということだ。確かにそうかもしれない。安部公房のそれが選民思想への批判を意図しているかぎり、水棲人は悪魔のような感じにはなりえなかっただろう。わたくしは、安部真知の挿画にだまされているのかもしれないが。――しかし、まあそのSF的なるものは、結局は近代的?な「制度」の延長である。

安部公房には、なにか、おぞましさからの逃走があるような気がしてならない。それは、優しさにもなるし、変形譚への道をたどることにもなる。

映画「自転車で行こう」はとても良く出来ている映画である。登場人物の知的障害者の乗る自転車は、彼の能力を少しだけ余分に力づける。我々は、近代的モラルや生活習慣をある種のSF的呪文として用いていることがあきらかだ。我々が社会的な人間になるために実装するそれらは、自らが出来ることを他人も出来るような想定を自明とすることであり、スイッチで電気がつくであろう、ロケットが月に着くであろう、ロケットが怪獣を爆発させるだろう――といったことと似ている。そんな世界では、障がい者はなかったことにされてしまう。

だからこの映画はせいぜいわれわれが自分の力を行使できる本当の範囲を「自転車で行」けるものに狭めている。近代では、文学にしても科学にしても、あまりにも巨大なものに対決して操作できるかのような錯覚に陥らせる。それはそれで人間のなすことではあったが、錯覚は錯覚である。だからといって錯覚をただせるというのも錯覚なのであろうが……。

教員の仕事は大変だ……

パノラマとヒューマニズム――「ドラゴンボール」を中心に

2019-05-23 23:40:49 | 漫画など


授業で「パノラマ館」、それについて触れている乱歩や朔太郎などについて話す。ああ、それは「ドラゴンボール」のオープニングみたいなもんです。とつい口走ってみたのですが、実際にオープニングテーマをきいてみたら、「ひろがるほにゃららら~」とちゃんと歌っておりました。わたくしの記憶もまだまだ健在です。授業後、ネットで調べてみたら、「ドラゴンボールパノラマワールド」なるおもちゃまで売っているようです……

だいたい悟空というのは、グローバル人材です。内向きになっているのは尻尾だけで、どんどん外側にいってしまいます。神様やなんとか王に会っても「おっす、オラ悟空」という感じです。コミュ力もスゴイです。ある少女にセクハラをしたのをきっかけに、競技大会の時間を使って結婚してしまうというコミュ力的時間の節約の仕方も知っています。自分の武力は、自分を守るときと「わくわくしてきたぞ」の時だけ使います。友だちを殺された時だけ口が悪くなり「このクズ野郎」とか言ってしまいましたが、普段は、「おっす、オラ悟空」とか「かーめーはめーはー」みたいな事しか言いません。しかし有言実行です。しかも、知らないうちに子どもまで作っており、人口減少対策に一石を投じました。

ゼミでは、菊池寛と志賀直哉について考えました。菊池寛が、志賀直哉のクズっぷりに「義しさ」みたいなものをみているのはいかがなものか。たぶん菊池寛も本当はあまり性格が良くなかったのではないでしょうか。志賀直哉は、「おれの戦闘力は90万です」とか家族のみんなを脅しつけながら、その実戦闘力は1ぐらいのゴミで、お父さんから小遣いをもらいながら女中に手を出しているような輩です。悟空なら「次から次へとおかしなことばかり言いやがってこのクズ野郎」と言いながら、「おっす、オラ悟空」といって友だちになってくれるでしょう。こういうのがヒューマニズムというのです。

「ドラゴンボール」はこう考えてみると、八犬伝と言うより、「近代の超克」という感じに見えてきました。以前、島田雅彦がたしか「ドラゴンボール」とか「ナウシカ」について「愛のテーマ」があると言っていましたが、果たしてそうか。パノラマ好きが志向する次のような場面のつながりに果たして愛があるであろうか。

「かーめーはーめーは~」(「ドラゴンボール」)

その時、北見小五郎は、くらめく様な五色の光の下で、ふと数人の裸女の顔に、或は肩に、紅色の飛沫を見たのです。最初は湯気のしずくに花火の色が映ったのかと、そのまま見すごしていたのですが、やがて、紅の飛沫は益々はげしく降りそそぎ、彼自身の額や頬にも、異様の暖かなしたたりを感じて、それを手にうつして見れば、まがう方なき紅のしずく、人の血潮に相違ないのでした。そして、彼の目の前の湯の表に、フワフワと漂うものを、よく見れば、それは無慙に引き裂かれた人間の手首が、いつのまにかそこへ降っていたのです。
 北見小五郎は、その様な血腥い光景の中で、不思議に騒がぬ裸女達をいぶかりながら、彼も又そのまま動くでもなく、池の畔にじっと頭をもたせて、ぼんやりと、彼の胸の辺に漂っている、生々しい手首の花を開いた真赤な切口に見入りました。
 か様にして、人見廣介の五体は、花火と共に、粉微塵にくだけ、彼の創造したパノラマ国の、各々の景色の隅々までも、血液と肉塊の雨となって、降りそそいだのでありました。(「パノラマ島奇譚」)