大杉栄と伊藤野枝たちのごたごたと60年代後半の若者の独り言を「対話」させるという映画。ただし、本当に対比的なのは、映像と言葉であり、美しい映像が延々続いている、なんというか、深夜のSLの映像を観ているようであった。
たぶん、60年代の若者の自意識の方を徹底的に虚無として否定し尽くすことが試みられていると、私は思う。そしてその萌芽は既に大杉達の方にもあり、だからこそ、大杉達の死因が意図的に曖昧にされているのであろう。問題は官憲による虐殺ではなく、エロスの問題かも知れず、そして当然、我々の常識は、そのどちらでもないと告げている……。これは自意識の劇であって、その空しさを主張するためには、それが観る側によって対象化されない状態──観る側の脳裏に張り付いて離れないほどの長さを、映像が持っている必要があった。埴谷雄高の「死霊」が長いのと同じ理由である(ちょっと違うか……)。で、216分もある。
そして、空しさが絶望へと変わる瞬間をいまかいまかと待っているのがこの映画だ。絶望は来なかった。
あるいは空しさこそが絶望だとしてみても良いかも知れない。しかし絶望は分かるが、何かやることを見つけた方がよかろう……と、私でなくても思うね。というか、60年代の若者全体がこんなではなかったし、いろいろと考えていた連中を、大学に入っても大した優越感も感じられなければ頭も迅速に動かないと悟った連中が、わけも分からず抑圧していたことが、推測されるだけである。大江健三郎の『われらの時代』は当時はなかなか刺激的なものだったのかも知れない。何しろ、革命か保守かではなく、革命か自殺か、を迫るものだったからである(あれ?ちょっと違うかも)。吉本隆明はこれに対して「はいはい、もっと絶望してからそういうこと言おうね」と言っていたわけだが、吉本にしても大江の底に潜む絶望者については、まだまだ少数派だと高をくくっていたところがあったのではないか。そうではなかったとおもう。
ただ、こういう映画を、前衛だ、意味もなく難解だ、ナルシスティックだ、と現在の我々が言うことは、こういう映画を作った人達よりも、ナルシスティックで容易である。