★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

恨ミシュランはお経である

2011-08-15 00:25:20 | 漫画など


枕元には、上の『恨ミシュラン』や『わたしの渡世日記』、『百年の孤独』などが置いてある。以前、三島由紀夫の対談集なども置いてあったが、悪夢が続いたので撤去した。

西原神理恵子は、明らかに昔の文士の生き残りである。それも自分の故郷を棄てた(故郷に棄てられた)文士の類である。石川啄木、太宰治を想起すればよい。彼らを見れば分かるように、その行動は故郷を拒否するわけでもなく義憤に駆られながら移動し、故郷に戻ったと思ったらまた出ていく、を繰り返すことが特徴である。寅さんのようなもんである。もっといえば、股旅物の主人公である。西原理恵子の作品にはさまざまあるが、『毎日かあさん』が「夫婦善哉」や「子をつれて」や「桜桃」や「新しき人よ目覚めよ」(あれ?ちょっと違うか)、『ぼくんち』が「枯木灘」、『晴れた日は学校を休んで』が「車輪の下」や「少年の日の思い出」、『鳥頭紀行』が「俘虜記」(ちがうか)だとすれば、『恨ミシュラン』はなんであろう。私は『大菩薩峠』みたいなもんだと思うのであるが……。切って切って切りまくるかわりに、食って食って食いまくるのである。食えば食うほど主人公の罪は重くなる。もともと食うことは、別に文化ではなく、殺生であり戦争である。そのことを思い出させてくれる本である。

いつもは、よい睡眠のために適当な一話ぐらいを眺めているのであるが、久しぶりに通読すると、実に静かな心持ちである。悟りのためにこのような本が必要である。つまりこれはお経である。