★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

ふたつのアンラッキーヤングメン

2011-08-25 01:42:49 | 漫画など


たまたまこの二冊を読んだのだが、近藤ようこと大塚英志はほとんど同時期に生まれた人物である。私の印象では、大塚氏が常に何か書いていないと死んでしまいそうな人物であるのに対し、近藤氏の方は考えているだけでなんとか生きられる人物のような……。二人とも──生の人物については知らないが、書き手としてはとても誠実に現実に対処しようとしているようにみえる。そのエネルギーは、自らに本質的には文学性や思想性が欠落しているという自覚──その自覚への執拗な強迫にあると私はみている。……それは現代の大人への強烈な不信感であり、自分への不信感であるようにも思われる。

上の二冊は、どちらもいわばアダルトチルドレンの問題を扱った作品であるように私には思われた。本当の舞台は書かれた時点の現実であると思う。『アカシアの道』はアダルトチルドレンが親の介護をしなくてはならなくなった話であり、筋だけで読者を戦慄せしめることが可能である。それだけ我々はそのような問題を〈現実〉だと思わされているからだ。『アンラッキーヤングメン』は、いわば60年代後半から70年代初頭にかけての青春群像であるが、登場人物達が、三億円事件、永山事件、安田講堂攻防戦、よど号ハイジャック、三島事件、山岳ベース事件、全てに絡んでいることになっている。つまり登場人物──「アンラッキーヤングメン」たちが、実際に非常に緩やかなセクトとして存在しその事件の全ての首謀者だったのである。彼らの名はイニシャルなどで示されているが、例えばヨーコの一人は永田洋子であり、Nは永山則夫、Tは北野武、Mは三島由起夫……といったことが一目瞭然である。油断してたら、ケンジというやつも出てきて、これは中上健次である。よく探せば、柄谷行人やわたくしの指導教官もこのマンガのどこかにいるのではなかろうか。……それはともかく、彼らが明らかに本名が分かるイニシャルで呼ばれるのは、彼らが現在から見た「神々の無名時代」であることを示している。我々は彼らのなれの果てを知っているから、いわば彼らがアンラッキーな境遇だった(例えば、原爆二世問題、育児放棄、虐待的待遇やレイプが注目されている)ために──「チルドレン」ではないが──暴れる若者になるしかなった時代に原因追求という形で遡行することになる。いわばトラウマ探しだ。その点、近藤氏の作品と同じように、こんな大人に誰がした、という興味に貫かれているといえるであろう。

とはいえ、近藤氏の場合は、自分の子どもや親を嫌う大人という徹底した平凡さに焦点を合わせているが、大塚氏の場合は、もっと欲張り、というか正反対で、良くも悪くも何かをやり遂げた当時の人間に対する憧憬が混じっている。これは興味深い点である。すなわち、大塚氏が問題にしているのは、近藤氏の場合のような「人間」ではなく、もっと大きな「時代」とか「よく分からん何か」みたいなものだ。「アンラッキーヤングメン」たちは、実際は関係ない他人だったはずで、個々の事件は別々の因果性で考えられるべきものだ。だが、彼らが実際につながっていたということで、読者はその時代に起きた様々な事件の中に、無理矢理つながった輝きやトラウマを見出すことになる。(その点で「帝都大戦」や「明治断頭台」みたいな作品であるなあ……)Mが作中で言うように我々の文化はすべてフェイクであり、この物語もひとまず引用の織物である性格が顕わである。しかし、上のような仕掛けで我々は過去に「何か」があったような気がするし、更には、作中でも定期的に挿入される啄木の歌が、その「何か」に歴史的な持続感や内面的な趣を与える。啄木の歌の代わりに永山則夫の歌や大塚氏の自身の歌が入らないのは、当然で、大塚氏は、このような過去への遡行が引用の織物でしか為されないとひとまず絶望したうえで、そのなかから何かが出てくるのをじっと待っているからだ。だからこそあからさまな嘘の設定で革命の時代を再構築しているのである。それが本当にあの時代を回想しようとする書物との決定的違いではある。その点、近藤氏はアダルトチルドレンと介護の問題を接続させた点は、或る程度再構築的であると思うが、しかしリアリズムとしてもあり得るレベルには違いない。近藤氏の場合は、大塚氏のような作為をするくらいなら、一気に説話形式に飛んでしまう。

いずれにしても、このような物語を我々が欲望し、物語に触発された我々が、我々個々人の物語を紡ぐことは本当に幸福であろうか……。物語は物語に過ぎない、と私は思う。

また、この二作の共通性で重要なのは、傷を負った人物達が、実際に付き合うことで、なにか痛みを軽減できるかのような物語になっていることである。「アンラッキーヤングメン」たちが実際の仲間だったことによって、Nは自分の言葉で自分への過去に遡行する必要はなくなったことになっている。これによって、作者は、『アンラッキーヤングメン』の人物設定の虚構性を、アダルトチルドレン的なテーマから引き離すことなく、着地させることに成功したわけだ。「アカシアの道」の主人公は、同じような境遇の男性と出会い、さらには同じような体験を取材する編集者となっていく。……これらは、いわば自分の言葉ではなく、他人の言葉を用いて事態を打開する道である。私もそれが一つの道であるのはとてもよく分かる。しかし、それがあまりにもはやすぎると、啄木が獲得したような表現までたどり着かないのではないか……とも思うのである。