↑
昨日、わたくしの住居の前でひっくりかえっていたアブラゼミ氏を救出した。
いつみても、セミをデザインした神はすごい能力だと思う。羽化するセミの姿については言うまでもない。神々しいにも程がある。神はデザイン魔で物凄い勢いで様々な生き物をデザインし続けているが、セミはそのなかで最高傑作に属すると思う。特撮ファンにはよく知られた名著に小林晋一郎『バルタン星人はなぜ美しいか―新形態学的怪獣論』という本があるが、結論は初めから出ている。バルタン星人は、セミに似せた「セミ人間」(「ウルトラQ」)というのが、すさまじく不気味で素晴らしい出来であったが、――いまいち人間に似ているということで、ハサミをつけてみたものだからである。もともとのデザインがよすぎたところに人間的なものを抜いていったのだから最高だ。
……蛇足であるが、セミの重さというのも最高である。私は命の大切さとか重さとか愚問を繰り返す議論を聞くたびに、命に重さがあるとしたらセミの重さであると思う。蠅だと軽すぎ、人間だと重すぎて、まかり間違えば破壊してもいいかなと思うかも知れないが、セミは駄目である。これを破壊するのは非常に神経が痛む。
ところで、神のデザインしたもっとも手抜き動物といえばこれである。
↓
そりゃ、自分に似せて作ったわけだから、駄目に決まってる。デザイナーの精神をどこに置き忘れたのか、神はよほど忙しかったのか、女性問題に悩まされていたのか、一生の不覚である。
私も例に漏れず子どもの頃は救いがたい昆虫好きであった。昭和40年代の円谷特撮シリーズがなぜ子どもたちにリアリティがあったかといえば、理由は簡単だとおもう。怪獣が昆虫みたいだったからである。昆虫の好きな子どもの狙いは、カブトムシならカブトムシの『大きいもの』を捕獲することである。故に、テレビをつけると街よりも巨大なカブトムシやセミやまいまいつぶろや蜥蜴がでてくるのだから、こりゃたまらない。美的理想世界の出現である。怪獣の中の人もできるだけ、昆虫らしく動いていた。宇宙人まで昆虫っぽかったからね……。怪獣がそれ以降、「怪獣」という観念によって生み出された不自然きわまりないものに変容し、不自然な人間的な動きをし始めるに従い子どもたちの心は離れていった。ウルトラマンの怪獣消しゴムというのがあったが、これがだいたい昆虫サイズなのには理由があるんじゃないかな……
ともあれ、男の子(とは限らんが……)がなぜこれほど昆虫や虫を追いかけ回すのか、説はいろいろあるらしいのだが、私が一番嫌いな説は、昆虫好きが精神的不安定の現れであるとかいう……、親からの愛情の代わりに昆虫に針を突き刺すとかいうあれである。あのね、昆虫好きは人間なんかどうでもいいんだよ、人間が滅びても昆虫さえいれば。だいたい、テレビゲームだのと言っているちゃらちゃらした同級生に愛想を尽かし、昆虫捕獲にかけては運動神経抜群である母親と一緒に毎日捕獲に出撃していた小学一年生の私はどうなるのだ。……それはともかく、かくも美しい世界に没頭していた我々が、なぜ女の子とかに夢中になり始めるのか、まったく謎である。ここで美的感覚が完全に狂い始めるのである。幼稚園のはじめのころ、素晴らしい美術的才能を示していた女子が、△のスカートをはいた女の子を描き始めたらもうその子の美的才能は、長い「概念崩し」の苦行後でなければ再生することはない。男の子も遅ればせながら、そんなくだらない世界に昆虫と別れを告げて突入してしまうのである。
私が仮にそうならずに、セミと結婚して生まれた子どもは下のような姿をしているであろう。
↓