★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

浅草革命のあと

2011-08-31 10:18:18 | 文学


 私は浅草が好きで、東京で調査をしたりするときには、必ず浅草寺の近くのあるレトロな宿に泊まる。風呂は普通の家庭の風呂。便所は水洗であるが、水を流すには、ボタンではなく蛇口をひねったり、紐を引っぱったりしなくてはならない。私が生まれる前の世界を残している場所である。近いうちにまた泊まりにゆくよ。
 上は、ビートたけしの『浅草キッド』の新潮文庫版。ビートたけしが、井上ひさしや萩本欽一などと同様に浅草のフランス座という劇場の出身であることは有名であるが、彼が明治大をやめて浅草にやってきた時には、既に新宿や何やらの方に若者文化(笑)は移っていて、ある意味浅草はオワッタ街であった。そもそも浅草は、いまでこそ昔が残っているということになっているが、昭和初期、川端康成の目には、義理人情の欠片もない資本主義の坩堝の象徴のようなところとうつっていた(「浅草」)のだった。故にか、芥川龍之介の映画シナリオ(「浅草公園」)の舞台になるような、モダンな不気味さがあるところでもあったろう。井上ひさしも、自分がいた頃(昭和30年代か)の方が、競争ばかりのぎすぎすした感じで、たけしが描くような師弟愛みたいなものはなかったと言っている。新宿の喫茶店で運動やらサルトルやらに熱中する学生連中が、その実サラリーマン予備軍だと思っていたたけしが浅草にやってきたのは、たぶんある種の革命続行のためである(笑)。敵がいない陣地がそこにしかなかったからだね。
 笑いは真面目なはなしと違って客が受けなかったら終わりなので難しいという人がいるが、ちょっと違うんじゃないかな。笑いとは、人間に対する認識でありそれ以外にないと思う。お笑い芸人がみな思想家じみてくるのは当たり前である。私が今日上の本を読んでいて思ったのは、80年代の笑いの発見とは、認識を語る速さの問題ではないかと思った。坂口安吾にあったような感覚で、厳密な認識を45回転にしてしゃべると笑いになるが、33回転だと悲劇に聞こえるという感じではなかろうか。このやり方は本音(この場合、厳密な認識ではなく純粋な欲望である)でくだを巻く行為とすれすれのところにある。綱渡りである。だから、80年代の堕落と洗練は表裏一体であり、それ以降の笑いのなかに空気を読んだだけのような保守的なものが現れ、テレビの保守化と歩調を合わせてしまうのも当然の帰結である。

すなわち、これは笑いだけの問題じゃない。

セミ人間の恐怖

2011-08-31 10:08:28 | 日記


昨日、わたくしの住居の前でひっくりかえっていたアブラゼミ氏を救出した。

 いつみても、セミをデザインした神はすごい能力だと思う。羽化するセミの姿については言うまでもない。神々しいにも程がある。神はデザイン魔で物凄い勢いで様々な生き物をデザインし続けているが、セミはそのなかで最高傑作に属すると思う。特撮ファンにはよく知られた名著に小林晋一郎『バルタン星人はなぜ美しいか―新形態学的怪獣論』という本があるが、結論は初めから出ている。バルタン星人は、セミに似せた「セミ人間」(「ウルトラQ」)というのが、すさまじく不気味で素晴らしい出来であったが、――いまいち人間に似ているということで、ハサミをつけてみたものだからである。もともとのデザインがよすぎたところに人間的なものを抜いていったのだから最高だ。
 ……蛇足であるが、セミの重さというのも最高である。私は命の大切さとか重さとか愚問を繰り返す議論を聞くたびに、命に重さがあるとしたらセミの重さであると思う。蠅だと軽すぎ、人間だと重すぎて、まかり間違えば破壊してもいいかなと思うかも知れないが、セミは駄目である。これを破壊するのは非常に神経が痛む。

 ところで、神のデザインしたもっとも手抜き動物といえばこれである。



そりゃ、自分に似せて作ったわけだから、駄目に決まってる。デザイナーの精神をどこに置き忘れたのか、神はよほど忙しかったのか、女性問題に悩まされていたのか、一生の不覚である。

 私も例に漏れず子どもの頃は救いがたい昆虫好きであった。昭和40年代の円谷特撮シリーズがなぜ子どもたちにリアリティがあったかといえば、理由は簡単だとおもう。怪獣が昆虫みたいだったからである。昆虫の好きな子どもの狙いは、カブトムシならカブトムシの『大きいもの』を捕獲することである。故に、テレビをつけると街よりも巨大なカブトムシやセミやまいまいつぶろや蜥蜴がでてくるのだから、こりゃたまらない。美的理想世界の出現である。怪獣の中の人もできるだけ、昆虫らしく動いていた。宇宙人まで昆虫っぽかったからね……。怪獣がそれ以降、「怪獣」という観念によって生み出された不自然きわまりないものに変容し、不自然な人間的な動きをし始めるに従い子どもたちの心は離れていった。ウルトラマンの怪獣消しゴムというのがあったが、これがだいたい昆虫サイズなのには理由があるんじゃないかな……

 ともあれ、男の子(とは限らんが……)がなぜこれほど昆虫や虫を追いかけ回すのか、説はいろいろあるらしいのだが、私が一番嫌いな説は、昆虫好きが精神的不安定の現れであるとかいう……、親からの愛情の代わりに昆虫に針を突き刺すとかいうあれである。あのね、昆虫好きは人間なんかどうでもいいんだよ、人間が滅びても昆虫さえいれば。だいたい、テレビゲームだのと言っているちゃらちゃらした同級生に愛想を尽かし、昆虫捕獲にかけては運動神経抜群である母親と一緒に毎日捕獲に出撃していた小学一年生の私はどうなるのだ。……それはともかく、かくも美しい世界に没頭していた我々が、なぜ女の子とかに夢中になり始めるのか、まったく謎である。ここで美的感覚が完全に狂い始めるのである。幼稚園のはじめのころ、素晴らしい美術的才能を示していた女子が、△のスカートをはいた女の子を描き始めたらもうその子の美的才能は、長い「概念崩し」の苦行後でなければ再生することはない。男の子も遅ればせながら、そんなくだらない世界に昆虫と別れを告げて突入してしまうのである。
 私が仮にそうならずに、セミと結婚して生まれた子どもは下のような姿をしているであろう。