★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

コーチ・カーターの教育論

2012-06-01 23:07:11 | 映画


以前、町山智浩氏が「スネークフライト」を紹介する放送のなかで、サミュエル・L・ジャクソンについて語っていてとても面白かったのを覚えている。たぶん映画批評好きは蓮實重彦派か町山智浩派に分かれる。「スネークフライト」は、飛行機に蛇がいっぱい出てくる、アメリカ映画史上最高傑作といても過言ではない──B級映画である。サミュエル・L・ジャクソンは、町山氏が言うようにアル・パチーノ、丹波哲郎と並ぶ、世界三大説教役者であり、「motherfucker」の発音が宇宙一うまい俳優である。

で、2時間サミュエルの説教だけで構成された、「彼の説教好きは腎虚になるくらい」(町山氏)という映画──「コーチカーター」は、まだ観ていなかったので観た。バスケットボールやってるリッチモンドの高校生を、どうせプロになれるはずないんだからばしばし勉強させる、「しかも殴る蹴るして勉強させる」(町山氏)らしいので、期待して観た。

……「殴る蹴る」はなかった……。ちなみに、実話に基づいた映画である。そういえば「鉄のカーター」とか話題になってたよな、昔。治安に問題ありありの地区の高校のバスケットボールチームにコーチとして赴任したカーターである。彼は州大会に出られるほどの強豪チームに彼らを鍛え上げるが、同時に大学に推薦されるレベルの学業評定2.3をも彼らに課していた。しかし、それが実現されていないとみるや、体育館を閉鎖し、図書館で彼らを勉強させる。しかし、バスケットチームの勝利や大学やプロからのスカウトなどを望む、親や学校や地域の猛烈な反対に遭う。ところが、当の高校生たちはなんとか2.3を達成し、州大会でも州一の強豪チームを追いつめる。高校生達の幾人かは大学にも行けた!ハッピーエンド。……この映画はなかなか「教育」的だった。

まず、「スラムダンク」に描かれているような、「おれは勉強できないけどバスケだけはすげえぜ」という一芸幻想を、完膚無きまでに粉砕しているところ。昔マンガ夜話で「スラムダンク」について誰かがコメントしていたが――、出来のわるい実は得意なものがないタイプの高校生読者が一番好きであろうと推測されるのは、「勉強できないけどバスケだけできる」ところの副主人公ルカワであるそうだ。わたくしもなんとなくそう推測する。「おれはこれだけは出来る」といっている人間が、「これだけ」出来た試しはない。学者でも「学問しかできない」と自称しているタイプがいるが、本当はそんなことはない。学問すらできないか、あるいは他にもいろいろ出来るのである。プロになれないレベルだったら、ごちゃごちゃいわんと生活のためにも勉強するのが、現実的である。(――実際、映画のなかの州大会では、プロからスカウトされかかっている高校生がいる相手チームが結局、彼のシュートで勝ってしまう。プロのレベルの厳しさをきちんと示している。)だいたい、基礎学力の範疇の場合、それができないのは暗記が苦手とか向いていないとかではなく、フツーは、考え方や生活の仕方に原因がある場合が多い。そして、それを作り上げてしまった親や教員の基礎学力や考え方にも原因がある。すなわち、原因をなんとかすれば、なんとでもなる。(まあ、実際はいろいろと原因があるしそれが分かるとは限らないし、したがって、なんとかなるとも限らないのだが、当為としてはそういうことにしておくべきだと思う。)少なくともこの映画では、日本できかれる、勉強が出来ることと人格が良いことを対立させて悦に入っているような考え方のレベルは、とっくに乗り越えられている。日本で半端な優等生が性格が悪かったりするのは、やらされている勉強の質が悪くレベルが低いためであって、しかもそういう質の悪さを馬鹿に出来るレベルの大人が周りにいないからではないか?――という次第で、百科事典が好きとかいうレベルの知性が威張り散らすようになるわけだ。

カーターが、ワル高校生を「諸君」と呼び「君」付けで呼ぶ──要するに敬意を払っていること、更に、遅刻したら腕立て伏せなどの罰があり、普段はちゃんと勉強し、試合当日はネクタイを締めること──といった約束の上で、そうすれば「勝者になれる」という「契約」をかわしたこと。これらのことは、一見、子どもを尊重し、教育・コーチ業を子どもとの契約とみなすという、いまはやりの論法に見えるかもしれない。しかし、私のみたところ、日本ではこういうやり方は形式上のもので、実際は、子どもの機嫌を損ねないように教育者がサービスするという雰囲気を醸成しただけである。大学のシラバスなんかでも、教育目標を、主語を学生にして、「~できる」という文章にせよとかいう、馬鹿げた言論統制が行われている。そもそも主体性という概念が日本語の場合どこに宿るかという難しい問題があることは、フツー常識的に分かるだろうという感じがするが、それが分からないセンスの消失した人間が沢山いるのだ。──、それはさておき、「学生は~できる」という文言には、自然生長的に学生が目標に達する、あるいは曖昧に「学生中心の授業」といったニュアンスすら本当は存在していない。その実、教員は好きなことを好きなように語るなよ、というメッセージだけが含まれているのだ。学生時代、授業を理解できなかった怨恨を、そのときの授業が非教育的だったと考えて慰撫しがちなタイプが、大学の「教育する側」に相当入り込んでしまっているらしい。だいたい、中学以来、崩壊している授業に対してほとんど期待できず、勉強は自由に、しかも誰にも頼らずやるしかないと思いこんでいるわたくしにとっては、こういう風潮はそもそも意味不明である。目標設定を行うということは、実際問題、学生の自由をある程度奪い、教育者がなにかを強制してしまうことを意味する。競技の場合は勝利というかたちで極端なイメージになるけれども、教育は、最終的に教員が持っている知の権威や栄誉を学生がまとうという、ある種の「権威」主義と完全に無縁になることは出来ない。「支援」とかかっこつけてみても結局はそうなのである。学生が目標に達するためにカーターは死ぬほどきついトレーニングを課した。教育「する」主体はカーターにあり、それでこそ学生は目標を達成できているのではないか?こういう側面を「全面的に」否定し、主体の「全て」を学生にあり、と考えてしまうと、指導する側には、カーターには決してなかった主体性を強要する「暴力」が発生するはずである。(日本の場合は、たぶん主体的に指示に従うことだけが期待されているので、そういう同調圧力という「暴力」で十分であるが……)私が思うに、実際のカーターにしごかれた高校生達は、いまでも少しは「あの野郎、しごきやがって。もっと遊びたかったよ」と恨んでいる。しかし、そんな思いを容易に教育改革に適用すべきではない。ほっとけば刑務所に行ってしまいそうな高校生に対する話だとはいえ、我々の社会も似たようなものであろう、いろいろとほぼやる気ないんだから……。無論、させられる指導内容がいろいろ問題あるのは百も承知で言っているのである。起源から言っても、現状からしても、国家の教育機関は少なからず軍隊みたいなものだ。だからこそ、その毒を出来る限り押さえ込むために、国家は教育に口を出すべきではない。国家が動けば、改革は当為とは無関係に自動的になり、上のようなナンセンスが現出するのである。

カーターが体育館を封鎖したときに、反対したのが教育関係者は親たち、地域のコミュニティーであったのは面白い現象である。彼らは、高校生の夢を奪うな、という論法に出ていたが、実際それは、地域のコミュニティーの一体感に関係があった。そこで地域の集会で意見を言い合って多数決で封鎖解除を決定し、カーターもそれに従っている。おまけドキュメンタリーによると、メディアはカーターを「時の人」としてあつかったらしい。日本の場合、まあ、体育館封鎖という決断をする勇気を誰も持たないだろうというのはあるけれども、その後のプロセスもぐだぐだとみんなで陰口をたたき合った結果、教育委員会や高校へのパッシングとなってしまうのがおちではなかろうか……。映画では、地域コミュニティはまるで地域自治エゴにみたいに描かれていたが、日本ではそれすら実現不能であろう。

……「motherfucker」とは確か言ってなかった。カーターは想像されているよりも紳士で常識的であった。