吉田秀和氏追悼読書として『作曲家論集』のブルックナー・マーラーの巻を読んだ後、自分の勉強に移り、神保光太郎の『鳥』を読み、石川淳の「白描」を読んでいたら昨日からの頭痛がぶり返してきたので、『スィート・ノベンバー』を観る。
ずんぐりむっくり東洋人の最大の敵・キアヌ・リーブスと、ずんぐりむっくり女性の最大の敵・シャーリーズ・セロンのラブ・ストーリーである。ラズベリー賞ノミネート。
キアヌ・リーブスは、『危険な関係』や『ビルとテッドの地獄旅行』なんかでは、この美形ゆるさん、としか思えなかったが、『リトルブッダ』でシッダールタの役をやってて、これがわたくしは好きである。で、『マトリックス』でも応援した。あとは、宇野重吉みたいな老け方をして頂けると全面的に応援する。
シャーリーズ・セロンは、よく知らない。綺麗だね(ボソッ)
余命すくないセロンさんが、一ヶ月ごとに恋人を変えるという生活を送っているのだが、11月に選ばれたのがキアヌ。天涯孤独の彼は仕事一生懸命のなんということもない男(脚本では「イヤな男」という事になっているのかもしれないが、キアヌじゃそういう男はいまいち演じられまい)。セロンさんは、なんとなくヒッピーぽいひとで、家族がすすめる延命治療を拒否し、ゲイの友だちや犬たちと楽しくやっている。キアヌはとりあえず仕事でこけて恋人からも絶縁されたので、セロンさんのとこに結局寂しくて来てしまう。なんかしらんうちに相思相愛に。で、いよいよ病状が悪化したセロンさんは、お互いに完璧な思い出だけを残すために、結婚しようとするキアヌをふりきってまちに消えてゆく。エンド。このあとセロンさんが自分で言っていたように家族の元に帰ったか?というとたぶんそうじゃなさそうだ。家族との溝は深そうだ。セロンさんはあまりの家族とのトラブルに疲れ切っており、たぶんキアヌと結婚して、家族としてのキアヌをみたくなかったに違いない。完璧な思い出だけなら、キアヌと結婚したあとの、彼の看病の思い出だってそこに加えてもいいはずだからだ。家族を持たないキアヌにはそんな問題が見えていないだけである。物語の肝が「家族」問題そのものにあるね、そこを隠しすぎたので、この映画は失敗したのである。
いのち短し 恋せよ少女
朱き唇 褪せぬ間に
熱き血潮の 冷えぬ間に
明日の月日は ないものを
いのち短し 恋せよ少女
いざ手をとりて 彼の舟に
いざ燃ゆる頬を 君が頬に
ここには誰れも 来ぬものを
いのち短し 恋せよ少女
波に漂う 舟の様に
君が柔手を 我が肩に
ここには人目も 無いものを
いのち短し 恋せよ少女
黒髪の色 褪せぬ間に
心のほのお 消えぬ間に
今日はふたたび 来ぬものを
黒澤明の「生きる」のクライマックスで、余命がいくらもない役人・志村喬が自分がつくった公園でブランコをこぎながら歌う歌である。果たして、志村喬の苦悩とセロンさんの苦悩をどう比較して論じるべきであろうか。私は、何も信じられなくなっていたのは、セロンさんの方だとおもうが、深刻なのは志村喬の方かもしれないと思う。志村喬は家族から見捨てられたあと、違う人間関係ではなく、突然「公」の事業にジャンプしたからである。日本で滅私奉公というのは、エゴ全開で仕事をやっていることを隠蔽するためであって、志村喬のように本当に「滅私」状態にならなければ、真に「奉公」に向かわないことを示しているんじゃないかと、私は昔この映画をみた時に思った。