『なぜ、そうであってはいけないのでしょう!――ああ! しかし、もう間もなく夜が明けます。私は、もう一度、朝の日光を見ることが出来そうです。そうすると、羅馬! 羅馬! 世界のどこの都会よりも輝かしい朝を持つ羅馬! 私は、一つは、それが忘れられなくて、こうして帰って来たのです。おや! この方は、眠っていますね。私の体温が、彼を眠りに誘ったのです。何という、一志の切れかかった瓦斯ストウヴのような可愛い鼾! 鼻を突いてやりましょうか。私は、この人の小さな足を、その茶色絹の靴下と一緒に、塩と胡椒だけで食べてしまいたい。』
『彼のために、その衝動を押さえて下さい。彼は、疲れているのです。』
『ベニイも、この頃は、すこし疲れて来ました。可哀そうなベニイ! 神経衰弱だという評判もあります。』
『彼は、家族と別れて住んでいるのですね。』
『そうです。家族は、ロマニア州のフリウリ村に居ます。ベニイの羅馬の邸は、ノメンタナ街―― Via Nomentana ――の六六・六八・七〇番で、アルサンドロ街から次ぎの角まで、一区劃を占めている、宏大なものです。ミケランジェロの建築と言われている法王門から、両側に、閑静なアパートメントと、乾麺類や薬を売る近処相手の小商店とを持つ、かなり広い並木街が、真直ぐに逃げています。そこの、門に一番近く立っているアカシア街路樹に、いつか、ベニイを暗殺し損ねた同志の弾丸の痕が、今でもはっきり木肌に残っているはずです。
――谷譲治「踊る地平線 長靴の春」