★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

先ほどから寝ている方が沢山おられる――メタファーでもあるよ、当然。

2015-09-16 04:33:36 | 思想
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/264668


すみません、こんなことを言うのは非常に申し訳ないのですが、先ほどから寝ている方が沢山おられるので、もしよろしければお話を聞いていただければと思います。[…]指摘されたこともまともに答えることができないその態度に、強い不信感を抱いているのです。政治生命をかけた争いだとおっしゃいますが、政治生命と国民一人ひとりの生命を比べてはなりません。

……SEALDsの奥田氏が国会の公聴会でしゃべったというので、書き起こされていたものを見てみた。なかなかの能力だとおもった。デモの時のかれの演説もいくつか映像でみたことがあるが、全体的にある種の韻の踏み方というか、リズム感がいいのである。若さに必ずしも備わっているものではないから、一生懸命考えた末に出てきたものであろうと思う。所謂「リアリズム」の観点から言えば、彼の論理についていろいろあげつらうことは可能なのであろうが、デモや行動が、言葉の繊細さ誠実さによって生じる――というか、政治的正しさだけでは人は動かないのである――ことは、政治的局面に立つ人間は自覚しておいても良さそうだ。所謂「リアリズム」は論理としては整合性を持っているように見えるが案外乱暴な精神を思わせる言葉によって構成されてしまうことが多い。そのリアルが我が国では自然主義の昔から、善人の顔をした悪人の「露悪」を意味しているからである。だから、人びとを分断する言葉は、ナショナリズムに立とうとも、もはやわれわれは越境者としてかあり得ないのだという立場をとろうとも……、現実主義者のふりをした瞬間に、どちらにも生じる可能性がある。残念ながらというか、なんというか、学問的な分野でも芸術的な分野でも、そんな自覚のない人が大声を張り上げてしまうのは、今も昔も変わりないように思われる。

目的を同じくした者同士が、自らの信じる「リアリズム」の言葉の無神経さと無謀さによって内ゲバ状態に陥って行くのをわたしも様々に見てきた。問題は、運動がそれが行われている「現在」のリアリティを見つめすぎるところにあると私は思う。運動を形作るのは、運動がない時代に考えられたものであって、思いつきは大概役に立たない。奥田氏のいう「個」は、氏の場合は案外素朴なものなのかもしれず、それがよいところなのであろうが、実際は長い間の精神的抵抗の経験を経ないと形作られないものであると思う。実際、最近の抵抗運動の盛り上がりは、急に出てきたものではなくて、かなり前から研究室や書斎や街角で始まっていたものなのである。(確かに、その都度流れにのっているだけの者も散見されるのであるが、それはそれ、ちゃんとノートに記録しておけばいいことだ。)それが急に盛り上がってみえるときがあって、まあ「革命」とか「運動」に見えなくもないわけだ。しかし、それを歴史的必然とか呼べないのは、まったく予測がつかず、どの時点でも五里霧中なのにはかわりがないからだ。その感覚をなくした輩が乱暴な言葉、いや精神で人を動員しようとしてしまうのである。

あと、我々の世代に多いと思うのだが、抑圧に慣れて、潜っていたのを忘れて更に潜ろうとする傾向が……。自らの起源をわすれずにいたいものである。