★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

春日神社を訪ねる(香川の神社143)

2017-12-11 18:46:06 | 神社仏閣
庄ノ宮神社のすぐ北側に春日神社がある。結構大きいので、前者の境内社にはみえない。この二社は、楕円の焦点の二つのように……いや、そんな簡単な話ではなかろう。



鳥居は明治33年。



 

狛犬さん(平成3年)。



更に登ってゆくと拝殿が見える。



いい雰囲気である。何か出そうな……

 



天児屋根命。というわけで、春日神社か。この神様は、アマテラスが岩の中からちょっと顔を覗かせた時に、ささっと鏡を出してアマテラスの顔を映したお方。してやったり。アマテラスは自分が人間、いや神だと思ってますが、ただのお天道様なので、自分の顔が鏡に映ってびっくり仰天、岩から出てきてしまったのであった。さすが天児屋根命、反射というものを心得ておる。



拝殿。



本殿。

その横には……



すばらしいオーラを放つ境内社さんたち。

庄ノ宮神社を訪ねる(香川の神社142)

2017-12-11 18:31:30 | 神社仏閣
西春日町。浄願寺山の麓にある。わたくしのイメージでは、こういう山と一体化しているのが神社というかんじである。



畑の中の長い長い参道を登ってくると、



鳥居(嘉永2年)にたどり着く。「八幡宮」とあり。



更に登ってゆく。注連石は昭和8年。

 

階段の最後のところで狛犬さん。(慶応2年)すばらしい顔をしている。中学生の若々しさだ。



左手(南側)にも参道(車用)あり。団地の方から上ってくれるのである。ちょっと行ってみる……





御旅所があるようだ。



天気が悪くなってきた……



高松市を臨みながら、参道を引きかえす。

 

拝殿。



本殿。

由緒書きの碑(郷土史家 市原輝士氏の撰文、昭和54年10月)に曰く、

「本社は、誉田別尊、足仲彦尊、気長足姫尊を祀り、往古奥野鶴尾八幡宮又は庄ノ宮と呼ばれ、現在は山浦神社と号し坂田の郷の鎮守神として、氏子崇敬者より尊崇せらる」


ああっ、鶴尾八幡の奥宮だったかっ

「御当社は創立年月日不詳と雖とも 人皇第五十一代平城天皇の御宇大同三年(西暦八百八年)の勧請と云伝う」

平城天皇と言えば、桓武帝の息子で、薬子の変で出家させられた人である。旧都の平城京が好きだった。

「御創祀されてより今日に至るまで、御神徳の宏大無邊昼夜わかたず御加護下さる。」

アリガタヤー

「室町時代の明應頃、片山志摩鷺田の片山城に住まうにいたりてより、殊に御当社に崇敬篤かりしと云う。江戸時代宝暦四年(西暦一七五四年)の神輿鏡、明和四年(西暦一七六七年)片山勝直奉納の八蓮葉の鏡、今尚在り。」

しかしっ、近代のごたごたで他の神社と同様、寂れ果てていたのであった。どうやら白蟻に食い散らかされていたらしい。

「昭和五十四年老朽の本殿、拝殿を氏子崇敬者一致協力、新しく造営落成す。」

立派な建物たてたね――。

「ここに神縁離るべからざる氏子崇敬者に、氏神と氏子の間に由緒の存することを明にし益々崇敬の念を厚くし、御神徳を拝謝し、悠久の未来まで、庄ノ宮を中心に発展を培はるべく期待するものである。」


最初に「山浦神社」と言ってたけど、戦前の『香川県神社誌』には「山浦神社」で載っておる。



境内社。「社日」とあり。社日というのは、産土神を祀る日のことであるが、碑に社日と書く場合があるのね……



 

さっきの南側の参道には、こんな案内板もあった。

「雨乞之経塚」

「今から一五〇年くらい前、このあたりは雨が降らず、田植えができなくて困っていました。たまたま、おいでていた老僧に雨乞いをたのみました。老僧は、村人に経塚を建てさせ、ご自分は、大槌島と小槌島との中間より小石を採り、半年を費やして、三部経などを一石一字書写し、塚に埋めました。それからは、田植えに困らなくなりました。」


この坊さんすごいぞ、この二つの島は、五色台のあちらにある無人島。どうやって採ってきたのかっ

「橋詰小山共同墓地の一番奥の数本の樹木の下に立派な経塚があります。弘化四年(一八四七年)慈園教正法師と記されています。法師は、仲多度郡の出身で、若年で橋詰の片山家に養子に来て仏道の修行を京都で行い高松浄願寺住職として来任し、その後仏生山法然寺住職になられ、明治四年同年同寺でなくなられました。なお、一九一〇年頃経石を分けて成願寺山の山頂に自然石の安山岩で、「雨乞之経塚」が建てられています。」




こりゃこの山の山頂には何かがあるということであるな……。目の前の巨石も気になるな……。

さて授業に行かねば――この狛犬の心意気で行こう。



ソクラテスと美しい星

2017-12-11 01:49:00 | 思想
飯田隆氏の『新哲学対話』のなかでちょっと気になった点があったので、「ソクラテスの弁明」を読み直してみた。20年前に一応目を通したはずだが、そのときの感想は、「ソクラテスは理路整然としすぎててこわいなあ」であった。しかしそれはわたくしに、民主主義とは無知の知を自覚するプロセスだということを教えたのである。ただ、ソクラテスの弁明はあまりにも無駄がなく、そして、読者たちよ死んだオレを反復せよ、みたいに言っているところもあって、ドストエフスキーみたいに、二十年後にそういえば気がついたわ、みたいな余裕がないようにわたくしには思えた。文学は、読後何十年先のための細部みたいなのが存在する。しかしソクラテスの場合はどうなのであろう……とわたくしは今でも思う。わたくしが結局、哲学じゃなく文学を選んでいるのもそんなところに原因があるかもしれない。わたくしがたぶん哲学のテキストを読む訓練を受けていないせいだろうが……

とおもって、観たのが「美しい星」映画版。



原作の後半、宇宙人同士でたたかわされる論争が、しばしば論じられているが、この映画ではどうかと思って興味深く観た。原作は予備校のときに読んだのでもうほとんど忘れてしまったのであれだが、映画での論争はあまり心に残らなかった。よくよく考えてみたいとろだが、少なくとも、ソクラテスがすごく知的であることは分かった。