★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

Tu es ma raison de vivre.――世川行介氏

2017-12-28 23:07:41 | 文学
わたくしのことを書いた人がいると学生が言うので、見てみたら世川行介氏のブログであった。世川氏の本は昔、「新宿……なんとやら」(「歌舞伎町ドリーム」だった)というのを読んだはずだと思ったが、その本が本棚にない。どこかにあるかもしれないからいつか発見されるかもしれないが――と思って、コピーの小山の中を別のものを探していたら『世川行介放浪日記 貧乏歌舞伎町篇』というのが見つかった。今年五月に買っていたのであるが、存在を失念していた。……というか、付箋を貼っているところから実は読んでた……と分かった。



表紙は、上のような感じで、写真にはない下の方にはちゃんと「世川行介」という著者名も書いてあるのだから、表紙だけで本人が三人(題名・絵・名前)いる。吹雪の中を麻雀の牌が飛び、たばこも右手においてある。ということは、この表紙は、麻雀の最中に氏が氏自身を卓の上に幻視しているイメージなのかもしれない。四人目の世川氏がいるということだ。しかし、赤い傘に本人の顔が隠れて見えない。慎み深いようなそうでないような、――内容を予感させる表紙である。

再読し始めたら、内容を思い出した。

坂口安吾は、「流浪の記憶」で、「地上の放浪に比べたなら私の精神の放浪の方が余程ひどくもあり苦痛でもあった」と言っている。実際、坂口の無頼というのは、あまり場所の移動を感じさせない。安吾は、友人に恵まれ体が頑強にできているのにひどく自意識過剰な心の不安定さに苦しんでいた。どうも安吾には、存在自身の孤独や不安みたいなことをいうくせに、恐ろしく社交的な一面がある。わたくしはそれが自意識過剰の原因だったのではないかとにらんでいる。しかし世川氏のものは移動する場面がなかなか切実で、女と病気が絡んでいる。にもかかわらず、非常に澄み切った感じの文章である。氏は吉本隆明の影響から出発しているようだが、むしろ作家としては、山之口貘とかに似ている気がする。ルンペンで、たぶん案外いい男というところも似ている。もともとそうだったのかは知らないが、たとえば「蘇った古い記憶」などに書かれているようなシンドイ経験をすると、2ちゃんねらーのような幼い自意識からは抜け出せるものだと思う。まともな魂を持っていればの話であるが――。世川氏の場合、非常に頑強な、孤独に対する耐性があって、ひどい目に遭うことで魂の堕落を引き起こすことがなかったのであろう。そんな気がした。案外、といったら失礼だが、体もちゃんと気にしているところが、本物のやくざな者たちとは違う。学者たちの方が、魂も体もめちゃくちゃになっている人がいる……コワッ

まあ、忘れてはならないのは、氏が本質的には失業者だということであろう。氏は、東京に出てきて「アーチスト(学者、でも可)目指してますわ」→「女と同棲しましたわ」→「捨てましたわ」→「就職ありませんわ」のような人ではなく、証券会社から特定郵便局と、ちゃんと働いていたのである。ところが、小泉の時のあれで……。確か氏は郵政民営化に関する本を書いていたはずである。勇気ある氏は、失業ついでに日本自体を捨てることにしたのである。「疎外されたら、相手を疎外せよ」とはわたくしの昔の指導教官(世川氏と同世代)の言葉であるが、ほんとにそれを実行に移す人間はほとんどいない。せいぜい、留学して「ポストコロニアル」な論文を書くだけだ。勇気のある行動とは、職場での迫害に抵抗してとどまること、そして国内における外国(氏にとってはちょっと前の歌舞伎町とか)にとどまることである。おそらく、世川氏はそれをやろうとしたのだし、氏と吉本隆明との相異がここにある。

「レエゾン・ド・ビイヴルということを考えるとやりきれない。」と坂口安吾は言ったが、世川氏はあんまりそういうことも言わないのではないだろうか。続編の「愛欲上野篇」を読んでないのであまり即断しかねるが、――氏の姿自体より、ほかの女たちの姿の方が鮮明であり、氏が歴史小説(これも読んでないが)の書き手なのもなんとなく分かる気がする。安吾とちごうて、書き手の氏は、Tu es ma raison de vivre.(君なしでは生きていけないんだ)で大丈夫なのである。本人がどうかは分からないが……

そういえば、山之口貘は戦後、故郷の沖縄の運命に苦しめられた。放浪者にとって、本当に恐ろしいのは「政治」なのである。我々小市民は「政治」の中にいるから案外気づかない。氏もそれで苦労したようだ。

八皇子神社を訪ねる(香川の神社162)

2017-12-28 15:52:08 | 神社仏閣


八皇子神社は円座町。

 

左は昭和四十二年。右は昭和二十年二月の注連石。二月と言えば、ヤルタ会談の頃である。この頃、ベネズエラとかペルーとかエジプトとかの8国ぐらいが枢軸国に対して宣戦布告している。アメリカとイギリス、ソ連だけに脅迫されたと思いこんでいる方々が忘れているのは、ホント多くの国に宣戦布告されたということである……



享和三年の灯籠



地神宮。

 

「八皇子御廟」とあり。鳥居は、明治十二年か?



香東川の方をのぞむ

 

本殿。