★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

「虫は」を正月に妄想する

2020-01-01 23:00:40 | 文学


虫は鈴虫。ひぐらし。蝶。松虫。蟋蟀。はたおり。われから。ひをむし。螢。
蓑虫、いとあはれなり。鬼の生みたりければ、親に似てこれも恐ろしき心あらむとて、親のあやしき衣ひき着せて、「今、秋風吹かむをりぞ、来むとする。侍てよ」と言ひ置きて逃げて去にけるも知らず、風の音を聞き知りて、八月ばかりになれば、「ちちよ、ちちよ」と、はかなげに鳴く、いみじうあはれなり。
額づき虫、またあはれなり。さる心地に道心おこして、つきありくらむよ。思ひかけず、暗き所などにほとめきありきたるこそ、をかしけれ。
蝿こそ、にくきもののうちに入れつべく、愛敬なきものはあれ。人々しう、かたきなどにすべき物の大きさにはあらねど、秋など、ただ萬の物に居、顔などに濡れ足して居るなどよ。人の名につきたる、いとうとまし。
夏虫、いとをかしう、らうたげなり。火近う取り寄せて物語など見るに、草子の上などに飛びありく、いとをかし。
蟻はいとにくけれど、軽びいみじうて、水の上などをただ歩みにありくこそ、をかしけれ。


西山秀人氏の論文「『枕草子』「虫は」段を読む」などを読んでみると、『枕草子』には、時間的な把握から空間的な把握に至るまでの広がりを持つにもかかわらず、「名」に拘る側面があって、それが呪縛となっていたと論じられてあった。そうかもしれない。また氏は、蛍までの前半と後半の齟齬のようなものも見ていた。確かにそうである。

わたくしには、蓑虫、額づき虫、蠅、夏虫、蟻とつづくなかで、擬人化がゆるんで虫そのものが見てくるようでこの段は楽しい。わたくしだったら、つい蠅なんかを出してくるのを品がないかなと思ってしまうのだが、「こんなうっとうしい虫の名前をつけてる人もいるんだがバカじゃないの?」と、虫は虫、人は人という次元を打ち込んでしまうところがいいと思う。したがって、そのあと、夏虫や蟻は虫そのものだ。清少納言がここでマルクスなんかを読めば、ファーブル並になっていたかもしれない。

とはいっても、どうみてもこの段で一番印象的なのは、蓑虫や額づき虫なのだ。蓑虫は「ちちよちちよ」と泣いているであろうし、額づき虫は暗いところで仏を拝んでいるのである。これは明らかに人間の姿である。とすると、つづく蠅も人間とみなければならぬ。仇とするべきモノの大きさではないが、とか、人の名に付いていることがある、などとダメをおしているが、つまりは「蠅のようにうざったいヤツ」のことなのである。R・シュトラウスの「英雄の生涯」で、木管楽器がピコピコと這いずり回るさまを作曲者は批評家のことだと言ったらしいが、大概、清少納言もそういうひとたちのことを言ったのかもしれない。とすると、夏虫――草子の上などをとびあるく者とは一体何者であろう。わたくしの経験では、これは読書している者のことである。わたくしなんか、可憐な挿絵の隣に座っている自分をよく発見する。ここまでとち狂ってくると、最後の蟻なんかが、水上を歩いているのは当然である。その程度のことは、本の中に浸る人間にとって普通に「見える」ものなのである。

そんなある日のこと私はふと自分の部屋に一匹も蠅がいなくなっていることに気がついた。そのことは私を充分驚かした。私は考えた。おそらく私の留守中誰も窓を明けて日を入れず火をたいて部屋を温めなかった間に、彼らは寒気のために死んでしまったのではなかろうか。それはありそうなことに思えた。彼らは私の静かな生活の余徳を自分らの生存の条件として生きていたのである。そして私が自分の鬱屈した部屋から逃げ出してわれとわが身を責め虐んでいた間に、彼らはほんとうに寒気と飢えで死んでしまったのである。私はそのことにしばらく憂鬱を感じた。それは私が彼らの死を傷んだためではなく、私にもなにか私を生かしそしていつか私を殺してしまうきまぐれな条件があるような気がしたからであった。私はそいつの幅広い背を見たように思った。それは新しいそして私の自尊心を傷つける空想だった。そして私はその空想からますます陰鬱を加えてゆく私の生活を感じたのである。

――梶井基次郎「冬の蠅」


海外に逃げる資本家より素早く動く感性は、死に直面してまったく動けない芸術家のなかで起こる。清少納言もその移動がない感じが、芸術への可能性を感じさせる。