★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

川のをかしさ

2020-01-05 23:55:33 | 文学


川については、清少納言は素っ気ない。そこを「をかし」で終わらしてよいのかと言いたい。

吉野川。天の河原、「棚機つ女に宿借らむ」と、業平が詠みたるも、をかし。

業平が『伊勢物語』八十二段で、「狩り暮らし たなばたつめに宿借らむ 天の河原に我は来にけり」と詠んだ。これには、「ひととせに ひとたび来ます君待てば 宿かす人もあらじとぞ思ふ」という返歌があって、確かに、業平に一晩与える程織り姫は浮気者ではなかろうが、業平ならずかずか入っていきかねないのでおかしなのかもしれなかった。しかしまあ、だいたい天帝というのは、なにゆえ男女の仲まで口を出し、会っちゃいかんとか言っているのであろう。二人は雨が降ったら会えないというが、――つまり、二人は地上から好奇の目で見られながらの逢い引きなのである。雨の方が雲で下々の者の目からは逃れられる。

あ、そうだ、雨が降ると天の川が氾濫して会えなかったのだ……

そういえば、伊藤左千夫に「水害雑録」という文章があって、牛を連れて苦労しているさまが描かれている。「野菊の墓」その他の小説はなかなかの根性を見せている伊藤左千夫であるが、「正しき伝統」とか自分を「醜態」だ何だと言い始める。これが災害の時だから危険な兆候である。災害はさまざまな理由に使える便利なものだ。

道々考えるともなく、自分の今日の奮闘はわれながら意想外であったと思うにつけ、深夜十二時あえて見る人もないが、わがこの容態はどうだ。腐った下の帯に乳鑵二箇を負ひ三箇のバケツを片手に捧げ片手に牛を牽いている。臍も脛も出ずるがままに隠しもせず、奮闘といえば名は美しいけれど、この醜態は何のざまぞ。
 自分は何の為にこんな事をするのか、こんな事までせねば生きていられないのか、果なき人生に露のごとき命を貪って、こんな醜態をも厭わない情なさ、何という卑しき心であろう。
 前の牛もわが引く牛も今は落ちついて静かに歩む。二つ目より西には水も無いのである。手に足に気くばりが無くなって、考えは先から先へ進む。
 超世的詩人をもって深く自ら任じ、常に万葉集を講じて、日本民族の思想感情における、正しき伝統を解得し継承し、よってもって現時の文明にいささか貢献するところあらんと期する身が、この醜態は情ない。


エロティク業平は織り姫のことばっかり考えているが、水が出たとなりゃ牽牛の方も大変だったに違いない。昔、彦星は川を頑張って渡ればいいじゃんとか頭がスポコンになっている友人がいたが、そんなことが出来るはずがない。(せいぜい、お前は「走れメロス」を読んでなさい)

いや、出来る。橋を架ければいいのである。保田與重郎にも「橋」に注目した理由が言外にいろいろあったのかもしれない。