無名といふ琵琶の御琴を、上の持てわたらせたまへるに、見などして掻き鳴らしなどすと言へば、弾くにはあらで、緒などを手まさぐりにして、「これが名よ、いかにとか」と聞えさするに、「ただいとはかなく、名もなし」と、のたまはせたるは、なほいとめでたしとこそ覚えしか。
淑景舎などわたり給ひて、御物語のついでに、「まろがもとに、いとをかしげなる笙の笛こそあれ。故殿の得させ給へりし」とのたまふを、僧都の君、「それは隆円に賜へ。おのが許に、めでたき琴はべり。それにかへさせ給へ」と申し給ふを、聞きも入れ給はで、異事をのたまふに、答へさせ奉らむと、数多たび聞え給ふに、なほ物ものたまはねば、宮の御前の、「否、かへじ、とおぼしたるものを」と、のたまはせたる御けしきの、いみじうをかしきことぞ限りなき。
何故かというと、帝の手元に「いなかへじ」という名の笛があったからである。知るかっ
帝のところには変な名前の物がたくさんあったらしいのだ。玄上、牧馬、井手、渭橋、無名、朽目、塩釜、二貫、水龍、小水龍、宇多の法師、釘打、葉二、等々。面白いのは、清少納言が続いて
なにくれなど多く聞きしかど、忘れにけり。
と言ってることである。ばつが悪かったのか、「「宜陽殿の一の棚に」といふ言くさは、頭の中将こそしたまひしか。」と一応全部褒めているのであるが、最初の「無名」からはじめて、笛の名前を僧都が知らなかった話をし、自分も名前を忘れたといい……、結局、下々にとっては、そういう珍妙な名前の物どもはどっかにありがたく置かれているもので、どうでもよい遠くの物だったに違いないのだ。中宮の「ただいとはかなく、名もなし」という発言を引いているところが、なんとなく全体にアイロニカルな雰囲気を与えており、ソ連や大日本帝国であったなら、帝を中傷したということで何かされそうである。
萩原朔太郎は「名前の話」で、なんゃかんやと作者の名前と作風について語っている。吉川惣一郎が本名で書き出したらだめになったとか……。――はっきりしていることは、読者が萩原朔太郎とその作風を少しは(
一般には無名の吉川惣一郎よりは)知っていることが前提だということである。そうでなければ、こういう文章は書けない。中宮も自分の存在が大きいことを知っているので、無名ということを語れるのである。
かわいそうなのは、名前のない猫とか、笛とかではなく、――悲惨な境遇の人々である。