The Thing From Another World (1951) Official Trailer #1 - Howard Hawks Horror Movie
51年の「遊星よりの物体X」はいまみると、その物体Xは全然物体Xではなく、フラン★ンシュタインである。しかもなんと植物であるということにされている。もげた腕を蒔いて?血漿をくれてみたら釣鐘草みたいなものが生えてきたので、というわけである。ドラマでは、軍の隊長みたいな色男と、学者だか秘書の女性が惹かれあっていて、たしか女性が「ケモノみたい」と男性を言う場面がある。植物人間とコミュニケートしようとして殺される学者のリーダーに対して、最後、この二人の美男美女は結ばれている。明らかに、ケモノ派が植物派を殲滅した話なのであった。なんと、現場を目撃していたはずの新聞記者が、死者はなかったことにしているのだ。
56年あたりの「ボディ・スナッチャー」という映画でも、サヤエンドウみたいなものから人体をのっとった宇宙人が生まれてくる。犬はだめだ、植物の清潔さがなんちゃらと言っていたのは確かドゥルーズだったかどうだったか……忘れたが、太宰治も安部公房も植物としての人間を描いている。ゴジラやウルトラマンにも植物人間はいた。「ウルトラQ」には「マンモスフラワー」というすばらしい造形もありましたね……
考えてみると、それらが花鳥風月的なものとまったく関係ないとは言えないのだ。ケモノ趣味に対立するものは大概、植物派なのではなかろうか。「置かれた場所で咲きなさい」とか「世界でたった一つの花」とかいうのが花鳥風月の本体である。それはニーチェのいうキリスト教みたいなものではないだろうか。ルサンチマンの表現なのである。
中納言まゐり給ひて、御扇たてまつらせ給ふに、「隆家こそいみじき骨は得て侍れ。それを張らせて、まゐらせむとするに、おぼろけの紙はえ張るまじければ、もとめ侍るなり」と申し給ふ。「いかやうにかある」と問ひ聞こえさせ給へば、「すべていみじう侍り。『さらにまだ見ぬ骨のさまなり』となん人々申す。まことにかばかりのは見えざりつ」と、言たかくのたまへば、「さては、扇のにはあらで、海月のななり」と聞こゆれば、「これ隆家が言にしてむ」とて、笑ひ給ふ。かやうの事こそは、かたはらいたきことのうちに入れつべけれど、「一つなおとしそ」と言へば、いかがはせん。
確かに、ユルい笑いで平和であるが、――海月の形状に黙ってしまう感性の方がわたくしは好きである。骨がない、ひいてはありえないものの喩えに使われる海月ではあるが、そんなこといったら虫も植物も骨はないではないかっ。植物だからエイリアンだ、みたいな発想も恐ろしいが、だからといって、対象をみることを忘れたら元も子もないような気がするのである。
こんなことを考えたのも、この前、ニコニコ動画で、むかしラジオでやっていた「フランケンシュタイン家の家庭読本」というラジオドラマを見つけたからであった。ここでもフランケンシュタインがつくったその人の形状についての描写は一切なかったが、――考えてみると、われわれの文化はしゃべり言葉に寄っていて、視覚をそもそも恐れているところがあるかもしれないと思われるのであった。花鳥風月にしても紫水黎明にしても、もはやほとんどその内実は視覚表現じゃねえからね……。
51年の「遊星よりの物体X」はいまみると、その物体Xは全然物体Xではなく、フラン★ンシュタインである。しかもなんと植物であるということにされている。もげた腕を蒔いて?血漿をくれてみたら釣鐘草みたいなものが生えてきたので、というわけである。ドラマでは、軍の隊長みたいな色男と、学者だか秘書の女性が惹かれあっていて、たしか女性が「ケモノみたい」と男性を言う場面がある。植物人間とコミュニケートしようとして殺される学者のリーダーに対して、最後、この二人の美男美女は結ばれている。明らかに、ケモノ派が植物派を殲滅した話なのであった。なんと、現場を目撃していたはずの新聞記者が、死者はなかったことにしているのだ。
56年あたりの「ボディ・スナッチャー」という映画でも、サヤエンドウみたいなものから人体をのっとった宇宙人が生まれてくる。犬はだめだ、植物の清潔さがなんちゃらと言っていたのは確かドゥルーズだったかどうだったか……忘れたが、太宰治も安部公房も植物としての人間を描いている。ゴジラやウルトラマンにも植物人間はいた。「ウルトラQ」には「マンモスフラワー」というすばらしい造形もありましたね……
考えてみると、それらが花鳥風月的なものとまったく関係ないとは言えないのだ。ケモノ趣味に対立するものは大概、植物派なのではなかろうか。「置かれた場所で咲きなさい」とか「世界でたった一つの花」とかいうのが花鳥風月の本体である。それはニーチェのいうキリスト教みたいなものではないだろうか。ルサンチマンの表現なのである。
中納言まゐり給ひて、御扇たてまつらせ給ふに、「隆家こそいみじき骨は得て侍れ。それを張らせて、まゐらせむとするに、おぼろけの紙はえ張るまじければ、もとめ侍るなり」と申し給ふ。「いかやうにかある」と問ひ聞こえさせ給へば、「すべていみじう侍り。『さらにまだ見ぬ骨のさまなり』となん人々申す。まことにかばかりのは見えざりつ」と、言たかくのたまへば、「さては、扇のにはあらで、海月のななり」と聞こゆれば、「これ隆家が言にしてむ」とて、笑ひ給ふ。かやうの事こそは、かたはらいたきことのうちに入れつべけれど、「一つなおとしそ」と言へば、いかがはせん。
確かに、ユルい笑いで平和であるが、――海月の形状に黙ってしまう感性の方がわたくしは好きである。骨がない、ひいてはありえないものの喩えに使われる海月ではあるが、そんなこといったら虫も植物も骨はないではないかっ。植物だからエイリアンだ、みたいな発想も恐ろしいが、だからといって、対象をみることを忘れたら元も子もないような気がするのである。
こんなことを考えたのも、この前、ニコニコ動画で、むかしラジオでやっていた「フランケンシュタイン家の家庭読本」というラジオドラマを見つけたからであった。ここでもフランケンシュタインがつくったその人の形状についての描写は一切なかったが、――考えてみると、われわれの文化はしゃべり言葉に寄っていて、視覚をそもそも恐れているところがあるかもしれないと思われるのであった。花鳥風月にしても紫水黎明にしても、もはやほとんどその内実は視覚表現じゃねえからね……。