★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

おのづからさるまじくあだなるさまにも

2020-01-29 23:31:41 | 文学


先日山本淳子氏の『枕草子のたくらみ』を読みとても面白かった。大学一年生の頃、古典の担当の先生に「女房たちは政治的な関係のど真ん中にいたはずなのに、恋愛に集中できるんでしょうか」みたいなことを聞いたことがあるが、そのとき先生は「うーん」と言ったままであったが、わたくしは結局、女房の生き方を勝手に馬鹿にしていたに過ぎない。「あはあはしうわるき事に言ひ思ひたる男」の一人であったのである。もっとも、この労働にも似た「をかし」の世界には楽しい無理みたいなものがかかっている気がしていた。山本氏の推理はああ確かにという感じがした。『源氏物語』がなんとなく霧の中の物語という感じがするに対し、『枕草子』の方は大げさなのにリアルである。紫式部は日記の中で

かく、人にことならむと思ひこのめる人は、かならず見劣りし、行くすゑうたてのみ侍れば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなるをりも、もののあはれにすすみ、をかしきことも見すぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにもなるに侍るべし。

と非常に鋭い事を言っている。清少納言の「人と異なろうとしている」あり方をきちんと見ていて、そういう人は、やたら「あはれ」「をかし」に拘っているうちに、現実離れを起こしてしまうのだと。これは一般論としても正しい。5ちゃんねるの行く末をみるがよい。ただし、これは、道長たちに殺されたも同然の定子を燦然と輝かす事――意図的な政治的なたくらみとしての現実離れであった、というのが山本氏の見解である。わたくしは労働令和の時代の人なので、これを苦しい労働だったと受け取っていたのだが――。そのたくらみを、あくまで定子個人に向けているところが重要だとわたくしは思う。

絵にかきおとりする物、なでしこ、さうぶ、さくら。物がたりにめでたしといひたるおとこ女のかたち。


こういうことを言う清少納言が確かに文章の真実にいい加減な態度をとるはずないな……。

「そう初めから上手にはかけないさ、第一室内の想像ばかりで画がかける訳のものではない。昔し以太利の大家アンドレア・デル・サルトが言った事がある。画をかくなら何でも自然その物を写せ。天に星辰あり。地に露華あり。飛ぶに禽あり。走るに獣あり。池に金魚あり。枯木に寒鴉あり。自然はこれ一幅の大活画なりと。どうだ君も画らしい画をかこうと思うならちと写生をしたら」
「へえアンドレア・デル・サルトがそんな事をいった事があるかい。ちっとも知らなかった。なるほどこりゃもっともだ。実にその通りだ」と主人は無暗に感心している。金縁の裏には嘲けるような笑が見えた。


漱石だって、こんな調子で絵の世界をちょっとからかっている。ちょっと本当に底意地が悪い気がするのが漱石で、虚勢をはっている気がする。近代の文章家は、人に向かっているようでいて、よくわからん「大衆」にむけて始めから書くから、こういう拡声器みたいな大げさなかんじになってしまうのであろう。