人ばへするもの、ことなることなき人の子の、さすがにかなしうしならはしたる。しはぶき。はづかしき人にもの言はむとするに、先に立つ。
あなたこなたに住む人の子の、四つ五つになるは、あやにくだちて、物とり散らしそこなふを、ひきはられ制せられて、心のままにもえあらぬが、親の来る所得て、「あれ見せよ、やや、母。」など引きゆるがすに、大人どもの言ふとて、ふとも聞き入れねば、手づからひきさがしいでて見さわぐこそ、いとにくけれ。それを「まな。」ともとり隠さで、「さなせそ。」「そこなふな。」などばかり、うち笑みて言ふこそ、親もにくけれ。われはた、えはしたなうも言はで見るこそ、心もとなけれ。
私怨的に訳すと……
人が側にいると調子こくもの。特にこれといった良さもないクソ餓鬼の、とはいえかわいいねーという感じで甘やかし慣れきっているやつ。咳(怒)。こちらが恥ずかしいくらい立派な人に物を言おうとすると決まって先に出てくる。(中略)勝手にものを出してきて騒ぐクソ餓鬼も腹立つが、これに「いけません」といわないで「そんなことはダメですよ」とか「こわさないで」とか言って笑顔にしている親も憎らしい。親を目の前に間が悪く何も言えない自分にもいらいらする。
ここで「はしたなし」を使っているのがよく分かる。我々の中には、この間の悪さに、半端さに、腰が引ける感じが大きく根をはっている。勇気がないとか正義を心得ていないというわけではなく、この腰が引ける感じが実在してしまっている。
私の胸には蝮が宿り、お母さまを犠牲にしてまで太り、自分でおさえてもおさえても太り、ああ、これがただ季節のせいだけのものであってくれたらよい、私にはこの頃、こんな生活が、とてもたまらなくなる事があるのだ。蛇の卵を焼くなどというはしたない事をしたのも、そのような私のいらいらした思いのあらわれの一つだったのに違いないのだ。そうしてただ、お母さまの悲しみを深くさせ、衰弱させるばかりなのだ。
恋、と書いたら、あと、書けなくなった。
――太宰治「斜陽」
ここで「季節のせいだけのものであってくれたら」というのが実感がこもっている。季節にせいにして乗り越えることだって出来るのである。昔「恋の季節」という歌があったけれども、これだって本当にそう思える場合があるわけである。これは非常に清潔な処理の仕方であるとともに、事実に出会ったときに非常に弱い。暴力で打ち消すことになりかねない。考えてみると、上のクソ餓鬼への憎しみなど、ほんとうはそういうものかもしれないのである。