風は嵐。三月ばかりの夕暮れにゆるく吹きたる雨風。
八、九月ばかりに、雨にまじりて吹きたる風、いとあはれなり。雨の脚横さまに、騒がしう吹きたるに、夏とほしたる綿衣のかかりたるを、生絹の単衣重ねて着たるも、いとをかし。この生絹だに、いと所狭く暑かはしく、取り捨てまほしかりしに、いつのほどにかくなりぬるにかと思ふも、をかし。
暁に、格子、妻戸を押しあけたれば、嵐のさと顔にしみたるこそ、いみじくをかしけれ。
九月つごもり、十月のころ、空うち曇りて、風のいと騒がしく吹きて、黄なる葉どものほろほろとこぼれ落つる、いとあはれなり。桜の葉、椋の葉こそ、いととくは落つれ。
十月ばかりに、木立多かる所の庭は、いとめでたし。
風は嵐。この段は漢・清少納言の面目躍如たるものがある。嵐を呼ぶ男・清少納言。
もっとも、やたら太鼓を叩いたりする嵐を呼ぶ御仁よりも、清少納言の方は、嵐を扇風機がわりと思っているのだからもっとすごい。「この生絹の単衣だってよ、やたらめったら暑苦しく、脱ぎたいほどだったのに、いつの間にかこんなに涼しくなったのかっ、いいね」。わたくしの同級生にも、嵐が来ると校庭に飛び出し「雨のしたたるいい男ーっ」とか言って激しくバカにされている友人がいたが、彼は語彙力がなかっただけであろう。
「暁に、格子、妻戸を押しあけたれば、嵐のさと顔にしみたるこそ、いみじくをかしけれ。(明け方に、格子や妻戸を押しあける、嵐がさっと冷たく顔に沁みる、とてもいいぜ)」。
とかく男は、ドカベンの男岩鬼みたいに、人の見ているところで威張ってみたりするものであるが、清少納言は秘かに「いみじくおかしけれ」というのである。これでいいのである。
九月十月の場面は、風で葉っぱが落ちるところをいいね、と言っているが、これは少し日和っている。本当は、台風で植木がなぎ倒されているところに興奮したいのである。――であるから、次の段で、野分の場面がある。
白き蝶の、白き花に、
小き蝶の、小き花に、
みだるるよ、みだるるよ。
長き憂は、長き髪に、
暗き憂は、暗き髪に、
みだるるよ、みだるるよ。
いたずらに、吹くは野分の、
いたずらに、住むか浮世に、
白き蝶も、黒き髪も、
みだるるよ、みだるるよ。
と女はうたい了る。銀椀に珠を盛りて、白魚の指に揺かしたらば、こんな声がでようと、男は聴きとれていた。
――漱石「野分」
漱石は「坊っちゃん」で虚勢をはっているが、油断するとこういう感じになるおとこである。