天皇、小碓命に詔りたまはく、「何とかも汝の兄は朝夕の大御食に参出来ざる。専ら汝ねぎ教へ覚せ」とのりたまひき。かく詔りたまひて以後、五日に至るまでなほ参出ざりき。ここに天皇、小碓命に問ひたまはく、「何とかも汝の兄は、久しく参出ざる。もし未だ誨へずありや」ととひたまへば、答へて白さく、「既にねぎつ」とまをしき。また「如何かねぎつる」と詔りたまへば、答へて白さく、「朝曙に厠に入りし時、待ち捕へ搤み批ちて、その枝を引き闕きて、薦に裹みて投げ棄てつ」とまをしき。
ヤマトタケルになる前のサイコタケルのエピソードである。景行天皇がサイコに「お前の兄は、なぜ朝食を一緒に食べないんだ?いいきかせておきなさい」といってもまったく兄貴は食事に現れない。「ちゃんと言いきかせたのか?」とサイコにきくと、「とっくに言い聞かせましたよ」というのだ。「明け方、兄貴のトイレに入ったときに、出てくるのを待ち受けて、ねじり倒し手足をもぎ取り、しがいを菰に包んで捨てたんです」と言うのであった。
言葉通りにとってしまう症状というのはよくきくけれども、忖度の仕方が完全におかしいという症状もよく最近きくようになった。忖度はバレずに秘かにやってほくそ笑むものであったはずが、忖度する相手の敵を殺すことをいつも考えてしまうという病気である。
信じられないかも知れないが、いま、日本で大流行の病である。
以前から、ヤマトタケルの父への愛を表すみたいな、エディプスまがいの解釈がある訳であるが、それが愛であるならば、イエスの言う如く、それは敵への愛にいつのまにかすり替わってしまうものなのである。汝を愛せ、みたいな処方もそれである。わたくしは、自己肯定感みたいな抽象的なものは、近代的自我と同じで、飢餓感を生むだけだと思うのだ。愛すのと肯定するのはまるで違うことで、ナルシシズムが生じるのは完全に後者なのである。
山毛欅の林 楢の林 白樺の林 ひと年私は山に住ひ 彼らの春の粧ひと
彼らの秋の凋落を見た けれども彼らの裸の姿 雪の上のたたずまひこそ
わけても私の心にしみる 何故だらう そのことわけを問ひながら
今日もまた林に憩ふ やうやく私のものとなつた この手足この老年が珍らしく
――三好達治「空林」
我々が他人の手足をもぐでなく、自らの手足を肯定するには時間がかかるのだ。