我今仮に化をあらはして語るといへども、神にあらず仏にあらず、もと非情の物なれば人と異なる慮あり。いにしへに富める人は、天の時に合ひ、地の利をあきらめて、産を治めて富貴となる。これ天の随なる計策なれば、たからのここにあつまるも天のまにまになることわりなり。又卑吝貪酷の人は、金銀を見ては父母のごとくしたしみ、食ふべきをも喫はず、穿べきをも着ず、得がたきいのちさへ惜とおもはで、起ておもひ臥てわすれねば、ここにあつまる事まのあたりなることわりなり。我もと神にあらず仏にあらず、只これ非情なり。非情のものとして人の善悪を糾し、それにしたがふべきいはれなし。
「雨月物語」の最後が、貧福論という金の精霊の説教で終わっているのは非常に興味深い事態である。秋成は、化け物達があくまでこの世のものであることを自覚していた。そして、目の前のものの精霊性に気付くにいたった。「神にあらず仏にあらず、もと非情の物なれば人と異なる慮あり」。モラルを強要する化け物思想から我々を動かす「非情の物」=精霊の存在に気がついたのであった。「我もと神にあらず仏にあらず、只これ非情なり。非情のものとして人の善悪を糾し、それにしたがふべきいはれなし」大事なことなので、二回も言っている。
最後に精霊は、信長も駄目で秀吉も駄目で、みたいなことをいいだし、徳川を褒めているみたいであり、――AでもBでもないCとかいっているやつが大概、権威にすり寄る幇間である事態を図らずも証明しているのであるが――つまり、もう少し、徳川の治世を褒めるという目的から離れることができたら、マルクスの貨幣論までいけたかもしれない。しらんけど。