たましきの都のうちに、棟を並べ、甍を争へる、高き卑しき人のすまひは、世々を経て尽きせぬ物なれど、是をまことかと尋 ぬれば、昔しありし家はまれなり。或は去年焼けて今年作れり。或は大家滅びて小家となる。住む人も是に同じ。所もかはらず、人も多かれど、古見し人は二三十人が中に、わづかに 一人二人なり。朝に死に、夕に生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。
たましきの都という表現が、確かに泡沫の形状をどことなく受け継いでおり、出落ちの感すらあるのだ。それらは泡沫のように、棟を並べ、甍の高さを争う。つまり横に上にと動いている、全体としてはその運動は代々つきないが、よく本当はどうかと見てみると、昔のままの家は希なのだ。そりゃそうである。去年焼けたので今年つくっている。大きい家が小さいに家になっている。住む人も同じだ。全体としては家の場所は変わらず住んでいる人も多いのだが、昔からいる人は二三十に一人二人かといったところだ。だいたい、朝に死ぬ、夕べに生まれる、そんな習いというものが水の泡みたいなもんだ。
最初から全体としての流れの不変さと個々の無常さという図式をつくっているもんだから、人間界もこういうふうにみえるのである。
が、しかし、木曽川や八沢川のあたりなんかには、玉敷の都どころじゃなく、家も人もぽつんぽつんといったところだ。川の縁にしがみついてやっとこさ生きているのが田舎の人々だ。川に喩えられるのは、京都が川みたいに幅広く、その中に判別できないくらい人がひしめき合っているからにすぎない。そこにあるのは、個々の人間よりの存在よりも都の存在の不変性への信仰なのだ。だいたい京都は、いつのころからか他に遷都しようという気をなくした。河の流れも変わるものなのに。
人間の存在は不変でもないが無常でも何でもない。
嵐とは一回キスしただけだ。
ここが日本だからまだ良かったが、外国だったらそんなのほとんど友達以前の範疇だ。そしてすぐに彼は遠いところへ行ってしまった。だから、わたしにはまだこれが恋かどうかも本当にはわからない。さっぱりわかってない。
それでも嵐を好きになってから私は、恋というものを桜や花火のようだと思わなくなった。
たとえるなら、それは海の底だ。
――吉本ばなな「うたかた」
本当に泡沫なるものは、こういうかんじのものを言う。恋かどうかもわからないものが海の底な訳がないじゃないか。わたくしは、中学の時にこの作者のデビューを伝聞し、一応読んだ。恋というものはそもそもはっきりしないモノらしいが、私にはそうはおもえなかった。大人になると吉本のいう恋に突き当たると思っていたが、いまだにさっぱりだ。
鴨長明も吉本みたいな人だったのかも知れない。