すべて世の中のありにくく、我が身と栖との、はかなく、あだなるさま、またかくのごとし。いはむや、所により、身のほどに従ひつつ、心を悩ますことは、あげて数ふべからず。
地震で塀につぶされた子供の面玉が飛び出してたとか、大仏の頭が墜ちたなど、けっこう分かりやすいところに目をつけつつ語られてきたあとに、このせりふである。身はもちろん、長明の着眼点は、その「栖」の儚さというやつである。塀や大仏の崩壊など、彼の目は物質的な崩壊にすごく敏感であり、あまり人間の心理というものには向いていない気がする。で、そういうひとが、人間に着目すると、「所により、身のほどに従ひつつ」(住んでいる場所や身相応に生じてくる)心」に着目するのは、あくまで外側から攻めるつもりなのである。
思うに、戦争や災害で形の崩壊を見せ付けられると、我々は目に見える者しか信じられなくなる傾向がある。そして、その傾向は心の内実をつくる。戦後からいままでやはりそういう傾向はある。
悟浄よ、諦かに、わが言葉を聴いて、よくこれを思念せよ。身の程知らずの悟浄よ。いまだ得ざるを得たりといいいまだ証せざるを証せりと言うのをさえ、世尊はこれを増上慢とて難ぜられた。さすれば、証すべからざることを証せんと求めた爾のごときは、これを至極の増上慢といわずしてなんといおうぞ。爾の求むるところは、阿羅漢も辟支仏もいまだ求むる能わず、また求めんともせざるところじゃ。哀れな悟浄よ。いかにして爾の魂はかくもあさましき迷路に入ったぞ。正観を得れば浄業たちどころに成るべきに、爾、心相羸劣にして邪観に陥り、今この三途無量の苦悩に遭う。惟うに、爾は観想によって救わるべくもないがゆえに、これよりのちは、一切の思念を棄て、ただただ身を働かすことによってみずからを救おうと心がけるがよい。時とは人の作用の謂じゃ。世界は、概観によるときは無意味のごとくなれども、その細部に直接働きかけるときはじめて無限の意味を有つのじゃ。悟浄よ。まずふさわしき場所に身を置き、ふさわしき働きに身を打込め。身の程知らぬ『何故』は、向後一切打捨てることじゃ。
――「悟浄出世」
わたくしは、中島敦が行動や形の世界を異様におそれていたのを不思議に思う。虎になるのは楽ではないか。しかし、虎になっても、彼は自分の心の世界を妙な警句的なものでしか表現することが出来なかった。沙悟浄は、こういうマウンティングに耐えて自らの迷いを迷いとして貫くべきであったきがする。