★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

面影問題

2021-06-19 23:59:33 | 文学


名を聞くより、やがて面影は推し量らるる心地するを、見る時は、また、かねて思ひつるままの顔したる人こそなけれ。昔物語を聞きても、この比の人の家のそこほどにてぞありけんと覚え、人も、今見る人の中に思ひよそへらるるは、誰もかく覚ゆるにや。また、如何なる折ぞ、ただ今、人の言ふ事も、目に見ゆる物も、我が心のうちも、かかる事のいつぞやありしかと覚えて、いつとは思ひ出でねども、まさしくありし心地のするは、我ばかりかく思ふにや。

名を聞くとその顔が浮かぶに関わらず実際に会ってみると違ったり、物語の舞台をいまみている風景に当てはめてしまったり、デジャブだなと思ったりする、――そんなことを記しているのであるが、哲学の出発点みたいな話である。兼好法師は「誰もがなるのか」「私だけだろうか」と言っているが、そうは言ってない、最初の話題が結構一番不思議なことである。だいたい、兼好法師は、その「名」を聞いた人に実際にあったことがあったのであろうか。仮に、会ってもいないのに、顔を想起できそうな気がするとしたら結構すごいことである。しかし、我々は案外、そういう前提で生きているのかも知れない。まったく面影を想定しないで人と会うことはありえない。

小林秀雄なんかは、人の面影を自分の面影を前提にして判断しているところがあるのではなかろうか。こういうひとは、判断がはやいかわりに、他人の顔が剰余としてつねに謎のような感じがしてしまう。彼は対象である他人「だけ」が好きであるファン意識を嫌っていたのであろう。

ある研究が、ファン気質の書くものである場合、のちに案外極端なアンチに転向する場合がある。さっき、柳田謙十郎の『西田哲学と唯物論』を読んでそう思ったのである。戦時中の『実践哲学としての西田哲学』では一生西田に着いていくといっていた彼である。柳田にとって西田とはなんだったのか。彼はファンであるところの意識が、自分自身にほとんど向いていなかったのではないだろうか。好きな人を好きな自分を十分に考えとかないと、好きな人と結婚してDVをふるうみたいなことになりかねない。我が国での転向は非常にこのようなDV的な趣がある。

自分がないと言ってしまえばそれまでなんだが……。