愚者の中の戯れだに、知りたる人の前にては、このさまざまの得たる所、詞にても顔にても、かくれなく知られぬべし。まして、明らかならん人の、まどへる我等を見んこと、掌の上の物を見んが如し。但し、かやうの推しはかりにて、仏法までをなずらへ言ふべきにはあらず。
嘘に対する様々な反応を列挙しながら、真相を知る人の前では嘘は通用しないね、と言いながら、その真相至上主義的な観点を、仏法にまで延長しちゃダメダと言いたいのであろうか。兼好法師の眼は、嘘を目の前にした人間を観察しながら、その実、仏法に対する人間の反応を見ているのではないだろうか。ほんとうは、仏法の具体的な部分部分に対してどのような真偽意識が働くのか、兼好法師は書くべきだったのかも知れない。しかし、そんなことはできない。当時だって、仏教は森のような訳の分からないカオスに見えていたはずである。それを勉強した人ほどそうなっていたはずではないか。
私が指の間に挟んだ葉巻の灰さえ、やはり落ちずにたまっている所を見ても、私が一月ばかりたったと思ったのは、ほんの二三分の間に見た、夢だったのに違いありません。けれどもその二三分の短い間に、私がハッサン・カンの魔術の秘法を習う資格のない人間だということは、私自身にもミスラ君にも、明かになってしまったのです。私は恥しそうに頭を下げたまま、しばらくは口もきけませんでした。
「私の魔術を使おうと思ったら、まず欲を捨てなければなりません。あなたはそれだけの修業が出来ていないのです。」
ミスラ君は気の毒そうな眼つきをしながら、縁へ赤く花模様を織り出したテエブル掛の上に肘をついて、静にこう私をたしなめました。
――芥川龍之介「魔術」
つねに、宗教も魔術のような顔をしている。そして、人は屡々そこに入り込む前提ばかり問題にしている。兼好法師の「徒然草」だって、そんなところがないとは言えない。「枕草子」の方が、ずけずけと問題に入り込んでいるような気がする。兼好法師にあるのは自らの弱さを塹壕としてつくりあげる意識である(嘘を見抜く達人を想定したりすることである)。それは常に対象や相手を認識しにくくすることでもある。小学生でもそのぐらいは意識し始めるのではないだろうか?