ワキ 不思議やな 余の草刈達は皆々帰り給ふに。御身一人とゞまり給ふ事。何の故にてあるやらん
して 何の故とか夕波の 声を力に来りたり。十念授けおはしませ
ワキ やすき事十念をば授け申すべし それにつけてもおことは誰そ
して 真は我は敦盛の。 ゆかりの者にて候ふなり
ワキ ゆかりと聞けばなつかしやと。
して 掌を合はせて 南無阿弥陀仏
ワキ 若我成仏十方世界
して 念仏衆生摂取不捨
地謡 捨てさせ給ふなよ。一声だにも足りぬべきに。毎日毎夜の御弔ひ。あら有難や我が名をば。申さずとても明暮に。向ひて回向し給へるその名は我と言ひ捨てゝ 姿も見えず、失せにけり 姿も見えず失せにけり
この「ゆかり」とは、敦盛そのものに目を向けさせる指し示しであるとともに、死者との繋がりを実体化させようとする言葉で、いきなり敦盛を出さないのはこの志向性と繋がりの存在こそが重要だからである。更には「なつかしや」「南無阿弥陀仏」云々ときて「捨てさせ給ふなよ」ともう「死者はしらんよ」という態度を許せなくしてしまうのである。
現代では、こういう死者との通路が難しい。目的のために人を殺しても、そんな感じがしないからである。実際に手を掛けたという肉体の感覚が、こういうものを作っている。むろん、肉体を以て相手を殺すことは自分も幾らかは死んだ感覚を受け取ることだ。その結果、死者とともに我々は生きることになる。三島由起夫に対する感覚が妙な感じがするのは、我々が彼を手に掛けた感じがするからで、――その延長に、死者とともに生きる感覚に導かれようとしている。もっとそれを強烈にやったのは連合赤軍だが、かれらの場合は、その死者がテキストとして生きていなかったのでうまくいかない。軍記物や能は、そのうまくいかなさを自覚したからこそ存在していると私には思われる。
オウム事件はすごく厭な感じがする事件でまさにあれは身内の事件というかんじだった。笑いながら自決している人間をみるようだった。9・11はなにか観念的な事件な気がした、アメリカにいたらまたちがうんだろうけれども。田島正樹氏がかつて、9・11の実行犯を主人公にした小説のようなものを書いていたが、氏がまさに思想を肉体として感じるレベルの思想家だったからであろう。海外の出来事に関してでも、こういうことが出来る人間は減り、身内のことしか肉体を感じられないところまで、我々の感覚はおかしくなっている。大量死の経験は、確かに観念されやすいというのはあるだろうが、最近は、まさに観念的な目的遂行のために、人の人生を何とも思わない人間が道徳を唱えるようになってきている。
狂った目標に従おうとするやつは論理的に狂ってると見做してよいのだろうか。死者との通路は実際言葉の文字通りの力に頼っているにせよ、まあ言葉に過ぎないから、という前提がないといけない。だからこそ、舞を踊る人間の肉体が必要で、言葉と肉体は曖昧にもたれ合っている。しかし、昨今の、「文字通りに受け取ってしまいがちの人」の中には、文学作品の文字通りの力で救われる人間がいる一方で、現実離れした狂った目標に救われる場合があるわけである(宮台氏のいう「言葉の自動機械、法の奴隷」である)。昔から指摘されていることではあるだろうが、そこで多数派に対すルサンチマンを解消しようとしたりするわけである。今後、何かの精神障害かと思っていたら、ただ狂った目標に従っている人だったという、いやこれはやはり、という議論がそこここで巻き起こるに違いない。それが、ようやく市民権を得てきた発達障害論を一気に退行させるかも知れない。
もっとも、人の精神構造の問題に帰すのが間違いのような気もするのは、――物事には反作用というものがあるということを全く知らずに、勉強すれば、支援すれば、何かすれば、なにか目的に奉仕できると思い込んでいる人が増えているからである。受験勉強じゃねえんだよ、と思うが、そのモードでずっと来ている人は多いのだ。
常識と道徳と規則、理念とかの区別が感覚的につかないことに対して、単に狂っているというべきではない。これは常に制度的なものと文化的なものとの相互的関係のなかから考える必要がある。