★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

憤懣之逸気

2022-03-05 23:05:51 | 思想


彼此両事、毎日起予所以、請亀毛以為儒客、要兎角而作主人、邀虗兦士張入道、屈仮名児、示出世趣。倶陳楯戟並箴蛭公。勒成三巻、名曰三教指帰。唯写憤懣之逸気。誰望他家之披覧。

憤懣の逸気を写しただけで、誰に読んで貰おうとするんじゃないよ、と執筆動機を説明しているのであるが、――かんがえてみりゃその悩みの種であった甥にはよませなくてよいのであろうか。よいのであろう。罪を憎んで人を憎まず。ボンクラはもうどうでもいいのであろう。彼は、すでに空海の中では、蛭牙公子になってしまっているからである。

今日は、菊池寛記念館で「〈働き者〉の文学史」と題してしゃべってきましたが、この〈働き者〉というのも、蛭牙公子のようなものである。だれも見たことはないが、そこに必ず存在している。最後は、ハンナ・アレントを引用してベタベタな展開になってしまったが、考えてみると、日本では「人間の條件」は映画で満州での悲惨を示していた。ハンナ・アレントの「人間の条件」はそういう現実を示すのではないが、確かに人間の話をしている。これは、現実と抽象のちがいではない。人間をどういう条件として考えるかの違いだけがある。そしてそれは、憤懣の逸気の性格によるのである。