★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

花が咲き、髑髏よみがえる件

2022-03-06 23:33:04 | 思想


有亀毛先生天姿辯捷面容魁悟。九経三史括囊心藏。三墳八索諳憶意府。三寸纔発枯樹栄華。一言僅陳曝骸反宍。蘇秦晏平対此巻舌。張儀郭象遙瞻飲聲。

亀毛先生というのがいて、弁舌爽やかで容姿が立派である。あらゆる本を読んでいる。――ここまでは、いまも大学内にいなくはないと思う。むかしは学者といえば、絶対こいつは人としておかしいという面容で猪かみたいな人が多く(←わたくしの偏見です)、わたくしもそういえば、赴任当時「ミニタンクみたいな人」と褒められていたが、どうみてもミニタンクとは本心からの言葉ではなく感情労働的であって、肥満ちび丸の言い換えであったろう。しかし、特に最近は、なんか美男美女みたいな学者が出現し、コミュニケーション能力爽やかに正義を語っている(←わたくしの僻みです)。ふざけるな、であるが、遺伝子と食料事情のせいだから別にいいと思う。

しかし、「三寸纔発枯樹栄華。一言僅陳曝骸反宍」とは如何なのであろう。先生の舌が動くと、枯れ木に花が咲きみだれ、言葉がでると、野ざらしの髑髏が生きかえるのである。

花咲爺とかハリウッドのエジプト映画なんか、鼻息で吹き飛ぶレベルである。そういえば、わたくしの研究室にある、このまえ四年生からいただいた花など、わたくしの邪気のせいなのか、なぜか枯れてきている。髑髏はあまり最近は道に落ちていないのでわからないが、以前、家のベランダにトカゲの木乃伊が落ちていて、私が息を吹きかけても2ミリ動いただけだった。論語でも話せば、生き返ったのかもしれないが、風に乗ってどこかに逝ってしまったので、確かめようがない。

この亀毛先生――いきなり、ここまですごいのが出てきているのに、例のぼんくらの甥はまだ更生しないのでしょうか。教育は難しいのである。

受験勉強もキャリア教育も主体的で深い学びもなんとかサイクルもまったく同じものであって、一言うるせえとしか言いようがないものであるが、世の中、上の亀毛先生みたいなものばかりではないのである。普通のひとは、努力と根性でやるしかないのである。思い上がるのもいい加減にしろと。努力と根性とは、ある意味、人間を捨てて犬猫亀とおなじようになれという意味である。極端になると、軍隊の新人教育みたいに「お前らみたいなウジ虫に価値などない」みたいな事になるのであるが、これはだめである。しかし、ウジ虫をバカにしてはいけない。ウジ虫の根性は人間以上なのである。

しかも、ここででてきたのは亀毛である。

亀と言えば、ガメラであるが、あいつの体型はミニタンクに似ているのでいやだ。対してゴジラはスタイルがいい。しかも頭がいいと思うのだ。彼はなんだかだいたい日本にきて暴れてるんだが、これには必ず理由があるはずであって、ボードレールとか闇の自己啓発とか、あるいは宮台真司とかを読んで加速主義的にくるんじゃないだろうか。ハリウッドはあいかわらずイグアナとしか扱ってないひどい奴らだと思うのは勝手であるが、とりあえずこの原爆怪獣にたいして漱石の猫ぐらいの知恵者である可能性を考えとかないとまずいのではなかろうか。ゴジラは、死んでも死んでもよみがえってくる、まるで我々のようなしぶとさである。絶対、勉強家でもあるはずだ。