於是兎角公之外甥有蛭牙公子者。其為人也狼心很戾不纒教誘。虎性暴悪匪羈礼儀。博戲為業鷹犬為事。遊侠無頼。奢慢有餘。不信因果。不諾罪福。醉飲飡嗜色沈寝。親戚有病曾無愁心。疎人相對莫敬接志。狎侮父兄侈凌一耆宿。
蛭牙公子の紹介であるが、現代語訳ではただのだらしないデカダンス的不良に思えるけれども、漢文を読み下したかんじでは、断固決然、仁王のような勢いの輩なのである。それは狼であり虎であり犬を従えているイメージで、まんが的に言えば「ドカベン」の犬飼兄弟みたいな感じである。やつらはまだ玉遊びに夢中になっているからあれだが、この男は他人の言うことを聞かず粗暴で礼儀を知らず、博奕狩猟、ヤクザな仲間とつるみ驕り高ぶっている。また現代文で説明してしまったが、とにかく自意識がひねくれているというより、言動が激しく外れている輩なのである。因果や報いを信じないといっても、現代で言うなら、キャリア教育や健康教育など無視して飲食を暴走させている、なかなかの男ではないか。体のことばかり気にして、物事に熱中できない、何を目的に生きているのかわからなくなっている羊人間よりははるかにましと言わざるをえない。
結局のところ、こういう人間だからこそ、更生が可能なのであって、――自意識過剰で、口先野郎、やりたいことよりも健康を気にしたりする、いわば自意識アスリートみたいな人間は、論外だ。ダンテなら、地獄の環外において永遠の彷徨をさせておくような人間は何をやっても、いや、やらないから駄目なのである。ただし、バイタリテイのかたまりのような人間が何かを引きおこしてしまうこともたしかであった。
光源氏が紫の上を引き取るのは、かわいいのでということに加えて彼女の境遇に同情した側面があるわけだが、それで引き取れてしまう権力やらなにやらをもってしまっていることがすごく問題を複雑にしてしまったわけである。われわれ凡人は「出来ない」ことでいろいろな問題から逃げられている面もあるのだ。
金あると金なきの実際上の当惑より生ずる怨恨、嫌悪は甚だ少なくして、 彼等が人生の同源泉より流れ来りたるに、其の驕傲なる風態、其の奢侈を極はめ、放逸に縦横に馬を駆り車を走らして、 己れ等を蹂躙し奴隷視する者、是れ即ち彼等が怨恨の因つて生ずる所、不平の因て萌ざす所なり。 是を救ふ者奈何、曰く同情のみ。同情。同情によりて来らざるの慰藉はなし。
――北村透谷「慈善事業の進歩を望む」
北村透谷の言うような「同情」というのは、いまの「寄り添い」系とは全然違うもので、それは恋愛に近い。鷗外のエリスに対するあれもそれであろう。同情が恋愛となってしまうようなパワーは間違いを犯すであろう。しかしその間違いに認識の萌芽はあり、それ以外には欺瞞がある。現代人は、コンプライアンスとかなんとか言うて、積極的に後者を選んでいるわけである。