愛亀毛先生心橤神煩忙燃長息。仰円覆以含慨。俯方載以深思。喟焉良久囅然咍曰。三勧慇懃。叵拒来命。今當傾竭微管標愚流之行迹。尽涸拙蠡陳攝心之梗概。但懸河妙辯舌端短乏。北海湛智心府匱窶。筆謝除痾詞非殺将。欲披彼趣悱悱口裏。黙而欲罷憤憤胸中。不得抑忍。聊事搉揚。宜示一隅孰扣三端。
亀毛先生、もったいぶったかんじの「いやだけどしかたないから教えてやるわ」という主張である。ため息をついたり天を仰いだりするだけでなく、――自分の見識は狭い、鄭玄には劣る、陳琳みたいに文章で病気を治したり、史記のエピソードみたいに矢文で人を自殺に追い込むなんて事はない(←そもそもそんな事要求してねえだろっ。不良を更生させろと言ってるだけだ)、何かを言おうとすると言えない感じでもじもじしちゃうけど、言わなければ胸の中がもじもじしちゃう、押さえがたいよね、古今の事例を挙げて許して下さいませ、自分は一隅だけ言うんで後の三偶はよろしく、というかんじで、絶対空海は無理に面白がって書いている。
確かに、世の先生というのは、こういう態度で自らをかわいがるモノであって、論文だって、「管見では」、とかいいつつ誰もそんな知識は持ってねえぞというレベルのことをこれでもかと並べ立てるのである。大学が、自分の能力のなさを発見するところだと、しばしば大学人が主張するが、かならずしもそうではないのはこういうことである。勉強すればするだけ、当たり前であるが、人間はいやらしく増長するのである。
ただし、たんに自分が教えてやるでも、知識には限界があるとだけいわずに、AでもないよBでもないよ、と煙に巻きながら教育が行われるのには意味がある。例えば、文学や政治に挫折した多くの人々が、なんとかとなんとかの狭間、という表現をけっこうするけれども、大概現実逃避で、理想と現実と狭間とか、抵抗と服従の狭間とか、たいがい何もしませんでしたと言いたくないだけなのである。やった人は、狭間とか言わない。狭間ではなく、狭間に見えるなにかを言うためには、対義語の否定が重要なのである。わたしもそうだが、しばしば我々は自分と世の中に対する絶望と肯定が足りなくて、理想でもなく現実でもなく、と考えることを忘れてしまうのであった。でもだからといって、AやBを勉強しておかないとその否定が起こらない。
この勉強の世界というものはおそろしく、見えない物がみえはじめる。因果と言ってよいが、、、そういうものが見え始めるのである。「裸の王様」というのはいまのプーチンみたいなありふれたものではなく、もっと怖ろしい事態である。彼は馬鹿には見えない服を着てるというのだから。そういう物を信じるインテリにしかそういう物はみえない。そして実際にみえるのである。つまり、こういう裸の王様は一般の社会ではなく大学院とか学会とかで起きる「現象」なのである。
最近の社会は、たしかに、知恵を付けた人間が情報の束となって因果を形成したがる。裸の王様は現実の政治家にというより、本格的に我々のなかに育ち始める。そこらのガキが「王様は裸だ」と言ったとしても、簡単にはそれは認められない。ガキも情報として存在してしまっているので。