★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

目標よりも行事を

2022-03-25 23:48:34 | 思想


轟轟訝輪隱隱溢衢驫驫送騎霈艾側墎。從者躡踵袂幕蔭天。徒御賀肩汗霖灑地。紫蓋飛空而雲翔。繡服拂地而風歩。盡訝迎礼極媵送義。同牢同尊合卺合体。褰珠簾而對鳳儀。拂金牀而比龍体。凌瑟以調韻。超膠漆而同契。笑偕老於東鰈。悝同穴於南鶼。消一期愁快百年楽。

素晴らしく迫力ある結婚式である。轟轟隱隱驫驫という字面だけでも地が揺れ空気が震える感じがする。果たして嫁入りの儀式は、かように社会主義国の軍事パレードの様なものであったであろうか。なにしろ、大酒飲み女遊びをしている不良に説教しているのだ。その快楽を上回るものを結婚のススメとして表現しなくてはならぬ。

わたくしの結婚式なんかこんな大げさなものではなく、唯一上のものに勝っていたのは、写真を撮ったぐらいのことである。ただ、行事とはなんたるかをわきまえた年を重ねた親戚たちが場を盛り上げてくれた気がする。祝祭は、料理というよりも、薪にいろんな物が投げ込まれて埃もふくんだ空気が震える必要がある。

我々の社会は、「近代化」を合理化と認識しているせいもあり、どうやって派手な行事を行うのか分からなくなってしまっている人も多い。わたくしもとても苦手である。日本社会で唯一そういうものの訓練によって身についているのは小学校の先生ぐらいではないか。

学園で暴れる世代をみて、お前らは意外に何もできてないじゃないかとアニロニー言ってた世代を見て、お前らは言うだけじゃないか実践だよねと言う世代が出現して今に至っているとして、――ほんとに何かをやれる人が増えてるわけでもない。花★清輝が言った様に、観念的に実践的であるほど非実践的であることを自覚せよみたいな、ある種の常識的批判が必要な世の中になってしまった。

普段からまだやってもいないことを「がんばります」みたいなことを言い、失敗しても「修正して頑張ります」と言っている人間は、かならず物事が終わった儀式でも嘘をつくものである。辻褄を合わせているのではない。目標自体が嘘であることがあるのである。そもそも物事に抽象的な目標を重ねること自体が難しいのであって、まずは行事そのものを運営する練習をした方がよい。小学校で行事が多いのはそういうことなのである。しかし、これにバカみたいな理念を重ねて説明する癖が大人の側に出来てしまっているのがまずい。