天女のたまはく、『この木は阿修羅の万劫の罪半ば過ぎむ世に、山より西にさしたる枝枯れむものぞ。その時に倒して、三分に分ちて、上の品は、三宝より始め奉りて、たう利天までに及ぼさむ。中の品は前の親に報い、下の品をば行く末の子どもに報いむ』とのたまひし木なり。阿修羅を山守りとなされて、春は花園、秋は紅葉の林に、天女、下りましまして、遊び給ふ所なり。たはやすく来たれる罪だにあり。いはむや、そこばくの年月、撫で生ほし木作る、『万劫の罪滅さむ。悪しき身免れむ』とて守り木作れるを、おのが一分得分なし、何によりてか、汝一分あたらむ」と言ひて、ただ今喰まむとする時に、大空掻い暗がりて、車の輪のごとなる雨降り、雷鳴り閃きて、龍に乗れる童、黄金の札を阿修羅に取らせて上りぬ。札を見れば、書けること、「三分の木の下の品は、日本の衆生俊蔭に賜はす」と書けり。阿修羅、大きに驚きて、俊蔭を七度伏し拝む。
天女曰く、「この木は3つに分かれてて、[…]下の部分は自分の子どもたちに与える」と言っていたそうで、阿修羅はその木を育てていた。そりゃ、その木をもらいに来た人間にやすやすとは与えまい。すると、車の車輪のような雨が振り、雷が光り、竜に乗った子どもが、黄金の札を阿修羅に与えて去るのだった。そこには、三分の木の下の品を日本の俊蔭にあげる、と書いてあった。阿修羅はびっくりして俊蔭を拝んだ。まず、竜に乗った子どものところで驚いていただきたいと思わないではないが、意外な真実というのは劇的にしか訪れないものである。
車の輪と言えば、回転するのであろうか。車の輪の大きさの雨なのであろうか。どうでもよいが、――たしかに自然の現象はわれわれに自分とは関係ないものの器械的な動きの存在を思い知らせる。
こどもこのころから、ゴジラ映画や特撮に出てくる、ガイガンとかグロンケンとか回転する刃物が胴体に埋め込まれている怪獣などは、回転したら自分も切れてしまうような気がしないでもないし、刃物にどうやって栄養を届けるんだろうと思っていたが、あいかわらず、最近の「チェンソーマン」とかでそういうつっこみはないことになっているのであろうか。いずれにせよ、我々は、自然の驚異と一体化すれば強くなるという幻想をまだ抱いているということだ。
回転するのは自然だけではない。一年の回転というものもある。大河ドラマで誰かの一生を生きている日本國民は、一年がだいたい一生であり、一月にもう一回赤ん坊からやり直す。どうりで成長しないはずである。最近話題なのは、我々は一年ごとの反復だけでなく、八十年ぐらいで歴史的行為を反復する
あれである。柄谷行人でなくてもそういうものには誰もがある程度意識的である。しかも、反復それ自体への意識はあっても、過去のことは忘れている。
昔の人は言った。頭が悪いことを「クルクルパー」と言ったのである。頭は回転しすぎておかしくなるのだ。
何ものかの僕を狙つてゐることは一足毎に僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つづつ僕の視野を遮り出した。僕は愈最後の時の近づいたことを恐れながら、頸すぢをまつ直にして歩いて行つた。歯車は数の殖えるのにつれ、だんだん急にまはりはじめた。同時に又右の松林はひつそりと枝をかはしたまま、丁度細かい切子硝子を透かして見るやうになりはじめた。僕は動悸の高まるのを感じ、何度も道ばたに立ち止まらうとした。けれども誰かに押されるやうに立ち止まることさへ容易ではなかつた。……
三十分ばかりたつた後、僕は僕の二階に仰向けになり、ぢつと目をつぶつたまま、烈しい頭痛をこらへてゐた。すると僕の眶の裏に銀色の羽根を鱗のやうに畳んだ翼が一つ見えはじめた。それは実際網膜の上にはつきりと映つてゐるものだつた。僕は目をあいて天井を見上げ、勿論何も天井にはそんなもののないことを確めた上、もう一度目をつぶることにした。しかしやはり銀色の翼はちやんと暗い中に映つてゐた。僕はふとこの間乗つた自動車のラデイエエタア・キヤツプにも翼のついてゐたことを思ひ出した。……
そこへ誰か梯子段を慌しく昇つて来たかと思ふと、すぐに又ばたばた駈け下りて行つた。僕はその誰かの妻だつたことを知り、驚いて体を起すが早いか、丁度梯子段の前にある、薄暗い茶の間へ顔を出した。すると妻は突つ伏したまま、息切れをこらへてゐると見え、絶えず肩を震はしてゐた。
「どうした?」
「いえ、どうもしないのです。……」
妻はやつと顔を擡げ、無理に微笑して話しつづけた。
「どうもした訣ではないのですけれどもね、唯何だかお父さんが死んでしまひさうな気がしたものですから。……」
「或る阿呆」芥川龍之介後の戦時下のなにやらを研究対象としているわしがゆうておく。日本の政府も人民もあほすぎて戦争に負けた。今は更にアホになっていることに気付いていないので、うまくいけば敗戦しても気付かないのではないだろうかっ
戦争における抑止力は一般的に、バカに通じなくてはならない。つまり核兵器で戦争がなくなると考えるようなバカに通じなければならない。敵基地攻撃能力ごときでバカがコワイヨーとかなるわけなかろう。だいたい馬鹿のくせに敵キッチンを狙い撃ち出来るわけないだろうがこのスカポンタン。
天女曰く、「この木は3つに分かれてて、[…]下の部分は自分の子どもたちに与える」と言っていたそうで、阿修羅はその木を育てていた。そりゃ、その木をもらいに来た人間にやすやすとは与えまい。すると、車の車輪のような雨が振り、雷が光り、竜に乗った子どもが、黄金の札を阿修羅に与えて去るのだった。そこには、三分の木の下の品を日本の俊蔭にあげる、と書いてあった。阿修羅はびっくりして俊蔭を拝んだ。まず、竜に乗った子どものところで驚いていただきたいと思わないではないが、意外な真実というのは劇的にしか訪れないものである。
車の輪と言えば、回転するのであろうか。車の輪の大きさの雨なのであろうか。どうでもよいが、――たしかに自然の現象はわれわれに自分とは関係ないものの器械的な動きの存在を思い知らせる。
こどもこのころから、ゴジラ映画や特撮に出てくる、ガイガンとかグロンケンとか回転する刃物が胴体に埋め込まれている怪獣などは、回転したら自分も切れてしまうような気がしないでもないし、刃物にどうやって栄養を届けるんだろうと思っていたが、あいかわらず、最近の「チェンソーマン」とかでそういうつっこみはないことになっているのであろうか。いずれにせよ、我々は、自然の驚異と一体化すれば強くなるという幻想をまだ抱いているということだ。
回転するのは自然だけではない。一年の回転というものもある。大河ドラマで誰かの一生を生きている日本國民は、一年がだいたい一生であり、一月にもう一回赤ん坊からやり直す。どうりで成長しないはずである。最近話題なのは、我々は一年ごとの反復だけでなく、八十年ぐらいで歴史的行為を反復する
あれである。柄谷行人でなくてもそういうものには誰もがある程度意識的である。しかも、反復それ自体への意識はあっても、過去のことは忘れている。
昔の人は言った。頭が悪いことを「クルクルパー」と言ったのである。頭は回転しすぎておかしくなるのだ。
何ものかの僕を狙つてゐることは一足毎に僕を不安にし出した。そこへ半透明な歯車も一つづつ僕の視野を遮り出した。僕は愈最後の時の近づいたことを恐れながら、頸すぢをまつ直にして歩いて行つた。歯車は数の殖えるのにつれ、だんだん急にまはりはじめた。同時に又右の松林はひつそりと枝をかはしたまま、丁度細かい切子硝子を透かして見るやうになりはじめた。僕は動悸の高まるのを感じ、何度も道ばたに立ち止まらうとした。けれども誰かに押されるやうに立ち止まることさへ容易ではなかつた。……
三十分ばかりたつた後、僕は僕の二階に仰向けになり、ぢつと目をつぶつたまま、烈しい頭痛をこらへてゐた。すると僕の眶の裏に銀色の羽根を鱗のやうに畳んだ翼が一つ見えはじめた。それは実際網膜の上にはつきりと映つてゐるものだつた。僕は目をあいて天井を見上げ、勿論何も天井にはそんなもののないことを確めた上、もう一度目をつぶることにした。しかしやはり銀色の翼はちやんと暗い中に映つてゐた。僕はふとこの間乗つた自動車のラデイエエタア・キヤツプにも翼のついてゐたことを思ひ出した。……
そこへ誰か梯子段を慌しく昇つて来たかと思ふと、すぐに又ばたばた駈け下りて行つた。僕はその誰かの妻だつたことを知り、驚いて体を起すが早いか、丁度梯子段の前にある、薄暗い茶の間へ顔を出した。すると妻は突つ伏したまま、息切れをこらへてゐると見え、絶えず肩を震はしてゐた。
「どうした?」
「いえ、どうもしないのです。……」
妻はやつと顔を擡げ、無理に微笑して話しつづけた。
「どうもした訣ではないのですけれどもね、唯何だかお父さんが死んでしまひさうな気がしたものですから。……」
――芥川龍之介「歯車」
「或る阿呆」芥川龍之介後の戦時下のなにやらを研究対象としているわしがゆうておく。日本の政府も人民もあほすぎて戦争に負けた。今は更にアホになっていることに気付いていないので、うまくいけば敗戦しても気付かないのではないだろうかっ
戦争における抑止力は一般的に、バカに通じなくてはならない。つまり核兵器で戦争がなくなると考えるようなバカに通じなければならない。敵基地攻撃能力ごときでバカがコワイヨーとかなるわけなかろう。だいたい馬鹿のくせに敵キッチンを狙い撃ち出来るわけないだろうがこのスカポンタン。