どうせ死ぬにしてもこの布片をもって死ぬ方が、もたずに死ぬよりも心淋しさの程度にいくらかのちがいがありはしないかと思われる。戦争でなくても、これだけの心尽くしの布片を着込んで出で立って行けば、勝負事なら勝味が付くだろうし、例えば入学試験でもきっと成績が一割方よくなるであろう。務め人なら務めの仕事の能率が上がるであろう。
一針縫うのに十五秒ないし三十秒かかるであろうし、それに針や糸を渡し受取り、布片を延べたり、○印を一つ選定したりするにもかれこれ此れと同じくらいはかかる。それであとからあとから縫い手が押しかけてくれればともかく、そうでないとすると一分に一針平均はよほど六ヶしいであろう。しかし仮りに一分に一つとしても、千針に対しては十六時と四十分を要する。八時間労働としても二日では少し足りない。なかなか大変な仕事である。閑人の道楽ならばいいが、仕事のあるお神さんやおばさん達にはあまり楽な仕事ではなさそうである。
――寺田寅彦「千人針」
千人針は寺田寅彦をもってしても「よい迷信」と言わしめたあれであったが、こういうかずかすの無害な迷信を一気に「たちの悪い迷信」に落とし込んだ戦争はやはりいけない。寺田寅彦だって、科学にだって迷信はある、とこの前にいっているわけで、本当は、科学的な迷信と千人針みたいな迷信が同様なものになってしまうことに危機感を持っていたのかも知れない。科学的な迷信の方が、「まだ考え途中でした」みたいないい訳が堂々と通用しているだけにたちが悪い。
教育の効能もある意味迷信の一つで、教育学者たちは、案外永遠に仮説を言い続ける覚悟が必要であった。そんなことはほんとうはみんなわかっているので、教育に関しては、信仰と信仰からの離脱というかたちをとって人々は行動する。いまは後者の局面だ。
石川三四郎の「虚無の霊光」に確か書いてあったが、彼の父親は息子たちのために漢学の家庭教師を雇い、夏休み中も学校の教師を連れてきて夏季学校を開かせ、村内の子どもがだらけないようにしてたらしい。初期の社会主義関係の人には明らかに「東洋的な仁愛」(柳田泉)があるような気がするけれども、それはある種、教育を片手間にやらなかった親の態度とセットであるような気がする。それはワークライフバランスとか平気で「言」える感性とは無縁の態度である。こういうのが「信仰」へと向かう局面であった。
上野千鶴子氏の件が載ってる文春の広告見ると、横に人生100年時代のなんとかとかあって、「人は七〇代越えてもまだイケる」みたいなポジティブなあれにみえる。しかも、上野氏の記事の題字の下に上野氏と若い男女(他の記事関係)の切り抜き顔みたいなものが踊ってて、なんだか婆と孫たちのたのしいかんじがでている。――もしかしたら、週刊誌を中心に、爺婆が教育者となる流れが復活しつつあるのかもしれない。そのために、国家教育の頂点の教授だった上野氏(教祖)をたたいて同時に婆として持ち上げるわけだ。
依田学海の「政党美談淑女の操」よんでなかったので、読もうと思ったが、――ちょっと長いので、学海が浦島を扱った小文でも読んでみた。依田学海は鷗外や逍遙がつくった浦島の戯曲をからかって文章を書いたのである。太郎の末裔が戦争に行く鷗外のものとか、なんかえせワーグナーみたいな盛り上がりを見せる逍遙のものとか、まるで浦島太郎が学校の先生のようであって、あまりにばかばかしい。一番現代人が共感出来るのは学海のほうかもしれない。老人になった太郎が乙姫を釣り竿で殴ったり、玉手箱に爆裂弾入れてよってきた見物人から金品を巻き上げたりするものなのである。
その冷たい手が離れずにゐて、暈のできた為めに一倍大きくなつたやうな目が、ぢつと渡邊の顔に注がれた。「キスをして上げても好くつて。」渡邊はわざとらしく顔を顰めた。「ここは日本だ。」
――鷗外「普請中」
まさに科学者擬きの鷗外である。考え中です、普請中です、ここは日本です、といってりゃ済んでいたのだ。その結果が、敗戦である。どうも「舞姫」以来、鷗外は、乙姫もエリスも振り捨てて普請中の道中を行く男であった。彼は大概にアンテナが折れている男であって女心がぴんとこなかった。しかしかくいうわたくしも、昔から女友達に「アンテナ折れてる」と言われてきた。
しかし、事態は、鷗外やわたくしのような文弱がいっているほど甘くなく、例えば、女性議員が少ないのは、政治が殴り合いか腕相撲みたいなものであるからではなかろうか。腕力で決めてるんだとしたら理解できる。冗談で言っているのではない。上野千鶴子が暴力的なのは対抗暴力だったからである。
しかし上野氏はある意味、人間の幸せ、個人の幸せ、自分の幸せ、フェミニストたちの幸せ、恋人の幸せ、などを背負いすぎたのだ。彼女が陥ったのはある意味で、プロスペクト理論そのままだと思う。あまりに負けが込むと、一発逆転を狙って賭に出て、いろんなことを抱え込んだあげくかならず失敗するというあれである。――厭な理論だけど、たしかにそういうことはある。そういえば恩田陸氏が「死者の季節」で紹介してて、その短篇の内容以上に、その紹介部分が怖かった。