★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

礼と食、礼と女色

2023-06-11 22:57:41 | 思想


任人有問屋廬子曰、禮與食孰重、曰、禮重、色與禮孰重、曰、禮重、曰、以禮食則飢而死、不以禮食則得食、必以禮乎、親迎則不得妻、不親迎則得妻、必親迎乎、屋廬子不能對、明日之鄒以告孟子、孟子曰、於答是也何有、不揣其本而齊其末、方寸之木、可使高於岑樓、金重於羽者、豈謂一鉤金與一輿羽之謂哉、取食之重者與禮之輕者而比之、奚翅食重、取色之重者與禮之輕者而比之、奚翅色重、往應之曰、紾兄之臂而奪之食則得食、不紾則不得食、則將紾之乎、踰東家牆而摟其處子則得妻、不摟則不得妻、則將摟之乎。

礼と食、女色と礼、どっちが重要だろうみたいな問の無意味さを言った箇所。そのときどきで大事なものは決まっているのに、――例えば飢え死にしかけている場合に礼を、結婚しなければならないときに礼を持ち出すみたいなことは、現実にはそもそも滅多にありえない。われわれの心は何か必要なときがあるときなら尚更、このままではよくないみたいな感覚が働くのである。それが、なにもしていない時点では二者選択の問題にみえる。

しかし、そんなことはその実わかりきったことだ。にもかかわらず、この二者択一への意識が道徳意識というものをつくるのである。そして我々の生の必要性における意識は、つねにそんな二者択一や道徳への抵抗である。きちんと確かめたわけではないが、日本語のネットで、四書五経の方はけっこう感想とか私的口語訳があるが、日本の和歌や小説に関しては八犬伝レベルでもあまりないし、有名古典しか人気がない気がする。面白い作品がたくさんあるのにもったいないわれわれはそもそも自分の姿を見たくないのだ、とかいうてるとわしもついに宣長化しそうであるが――実際、抵抗感よりも二者択一と道徳を弄んでいた方が、いつまでも出発点でうろうろしていられるのだ。

前にも書いたが、百日草は一度庭に種を蒔いたら最後、しらんうちに種をまき散らし、他の雑草を圧する勢いで増え続ける。この方たち、もしかして雑草ではなかろうか。我々に必要なのは、この勢いであるかもしれない。80年代のポストモダンの雰囲気を代表する、蓮實重彦と柄谷行人は、上の抵抗において独特であった。わたくしが想起するのは、野球に対する姿勢で、蓮實重彦はたぶん草野なんとかとかいうペンネームで野球評論を書いていた。燃え広がる饒舌という感じの文章だった気がする。これに対して、柄谷は、万年ドベの阪神タイガースに批評を喩えていた気がする。考えてみると、前者は色、後者は貧困(食)に立脚していたのであった。