★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

声色と存在

2023-06-25 23:54:16 | 文学


「花はさかりまでという、知っているだろう」
「…………」
「美しいものは、美しいさかりを過ぎると忘れられてしまう、人間いつまで若くていられるものじゃない、おまえだってもう十八だろう、ふじむら小町などと云われるのも、もう半年か一年のことだ、惜しまれるうちに身の始末をするのが本当じゃあないか」
「それはわかってますけれど」
 お民は客の盃に酌をしながら、ふと考えるような眼つきになった。
「身の始末をするにしたって、ゆきさきのことを考えますからね」


――山本周五郎「初蕾」


こういう場面ですら、下手な声色を使ってはいけないことは確かだ。山本周五郎なんかはさすがに言葉の裏の匂いを感じながら読まないと、――読めたものではないのだ。

ここ何十年かの、詩や小説の「気持ちが表れるように」音読させるやり方は常軌を逸している。しかもこれは授業の最初じゃなくて、まとめだったりするわけで。よく言われる「お気持ち主義」みたいなものはこういう授業で訓練されている。それによって、近代の作品にあった「内面」が破壊され、声色で
かっこつけたような「気持ち」がメディアをはじめ「公的」世界で繁茂するようになった。

まだ漢文の素読や和歌の暗記のほうがましだったと思うのは、それに込められた気持ちとやらは考えずに受け取っているからで、対するお気持ち音読は、単に音読する奴の気分を乗せているだけの、作品への虐待である。主人公の気持ちが分かる場合に、そのせりふをマネして堂々と声に出せる人間は人間としておかしい。そんな「優等生」がマイノリティ研究やら、一人も取りこぼさないとか言うても信用されない。こういう人は多くはないかもしれないが、そういうタイプの一人の分かりやすい欺瞞はインパクトが大きい。残念ながらそういうものであろう。

思うに、記号的な名前なのに「詩人」としての存在感があり、にもかかわらず青春時代なのか老いているのかわからず、朗読するときに容易にそれに即した「お気持ち声色」が使えないのが最果タヒである。最果タヒ氏の本領はもしかしたら老いてからではないかとおもう。文字と解離しているようでいて、いまですらある存在感が、本当の老いに直面してすごい迫力が出てくると思う。――要するに、問題は、言葉を発する者の存在感と関係ない「お気持ち」はどうでもよいということである。そのことをわかっているから、我々の社会では競って、マイノリティとか精神的問題とか奴隷的労働とか、子どもであるとか親であるとかという「レッテル」を殊更背負って喋る人間がでてくる。「レッテル」は存在の代替物である。

例えば、保護者からの「子どものいない先生は子どもの気持ちが分からない」みたいな誹謗中傷はよくあると聞くが、こういう文字通りにとったばあい馬鹿発言にしかなっていないものには、いちいちダメージを食らわないようにしなきゃいけない。――が、これがダメージになってしまうのは先生の側に、自らの存在照らして「馬鹿な発言ですね」と判断しそれを「言う」権利がなくなっているからである。残業時間を少なくしても無駄である。そういえば、独身時代の頃、「独身教師には、恋愛する高校生の気持ちがわからない」と言っていた校長(いや理事長だっけ?)に出会ったことがある。こういう**な発言は馬鹿にはつきものなので治らない。だから言われた方がちゃんと「馬鹿ですね」と言っても厭がらせを受けない職場が存在していないといけない。しかし、職場環境を整えるみたいな考え方だと、お上や管理者がそれを整えなければいけないみたいな発想になってしまうけれども、馬鹿なやつは管理職にも同僚にも保護者にもいるに常に決まっているのであって、必要なのはやはり常に言論の自由なのである。そしてこの自由こそが、言葉と存在を緊密に結びつけるのだ。そしてその上で、「気持ち分かれよ」みたいなコミュニケーションが不要ではなくむしろ有効な場合が多くなるのである。

他人の気もちがわかるわからんみたいなエスパーみたいな観点が我々を縛っているのが変なのであるが、必要なのは丁寧な観察である。しかし、それにしたって勉強と経験が必要な大変なことだ。とにかくすべて容易ではないのだが、そうならずに、大概は憤懣が容易さを導いてしまう。そしてそれがどことなく嘘くさい「力」を行使することだけが目的の発言となるのは、そもそも憤怒によって精神の自由がなくなっているからだ。

なぜ対話や論争が生じないかといえば、いまだったら、中年より上の世代が、それより上の喧嘩っぱやい批判的知識人たちが現役の時には憤懣に耐えつつ黙っていて、彼らがいなくなったとたんに意見を通し始めたような現象があり、気持ちはわかるけどそれは人によって態度を変えただけではと思われた事に少しは原因がある気がする。これはいまどきの優しいリベラルみたいな人たちにもある現象で、結局意見より「力」を重視しているようにみえる人間が信用されるわけがない。そしてそれが過去に戦えなかった弱さの隠蔽である限り、相手は弱者として彼らを扱うに決まっているのである。――こういうのは、ずっと繰り返されてきた歴史に過ぎないと思うが、軽視してはならないことだと思う。

観察や研究を行っても、どこまでもマトハズレみたいなことはある。これも、何か目的を学問から外してしまったから起こる現象である。学会や何やらに限らず発言者自身のためみたいな質問や発言が多くなっちゃって、問題提起そのものが無視される傾向があるのも当然である。質問も発表も、学問それ自体に即する問題提起である必要があるが、そうでないと、やることが全て書類の傷のなさみたいなのに向かっているあり方に似てきてしまうのだ。ほんとの役人の頭の使い方ですらない、セールストークあるいは学校的反省文的ななにかである。教育現場で、部活はやめたいが、書類をやめることができないのとおなじことが、研究の分野でも起こっている。