★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

冥豫

2023-10-16 23:26:51 | 思想


上六。冥豫。成有渝。无咎。

逸楽で目がくらんでしまうことはある。それを変革したら災難は訪れない。

逸楽にも人間的な技術が必要である。だからそれが結果するものがいろいろなのである。現代は、しかし、人間的な技術の涵養に向かわせる環境がさまざまに整っていない。例えば、若い人たちが宴会とか集団での催しを嫌う原因には、いろんなものがある。が――年上の強迫的な昭和のり?みたいなのもひとつの原因としてありうるけれども、同世代の無神経な人間が耐えがたいレベルであるのも原因なのである。お互いに、というより、――明らかに赤ん坊レベルのやつがいるからだ。そういえば、考えてみると昔もいたが、そういうのは責任ある立場の者が、責任をかぶって罵倒したり、周りも嫌がらせをしたりしながら、徐々にコミュニティから追い出したりしてたんじゃないか。これは差別となってしまう場合もあるが明らかに不可避的な行為である。しかし現代ではこれが、おおくくりに、金子みすゞの真情とは反対方向に「みんなちがってみんないい」になってしまうため、非常に難しくなっている。すなわち、アカン無神経な人間に対する繊細な判断が、雑な社会的コンプライアンスによって暴力的に不能化させられているわけである。金子みすゞを殺したのはそういう不能化なのに。

上記の人間として一般にイメージされているのは、空気が読めないタイプであろうが、実際は、どちらかというと、いわば昭和のりが無能化・怪物化したようなかんじの人間であって、包摂や協働みたいな観念を最悪なかたちでエサとして与えられて自己を安定させたタイプのようにも思われる。戦時下にもたぶんいたな、こういうの、という感じである。総じて、いまのわかいひとはコミュニケーション能力がない、みたいな判断は一般的にも印象批評としても無効なんじゃないか。彼らの目の前には、コミュニケートしたくない、つきあいたくないやつが非常にたくさんいるようにみえるからである。先のアカン奴に引き摺られて群れと化しているなかではよいことができる感じがしない。そんなところには皆混ざりたくないであろう。もっとも、自意識でそう思っていても、問題は、そう思っている自分が当のアカン奴になっていることがあるという事実にそこそこ気付いている人間も多い。しかし見えている原因が自分にもある状態が一般化してしまえば、それはそれでどうしようもない。心ある人間はだまり、心ない奴だけが他人にだけ原因を見出していよいよ暴れ出す次第だ。

集団化しても群れの分散した集合にならないように、信頼される人間になることはいつも大切だ。コミュニティにとって信頼感がベースにあるべきなのは倫理の問題ではない。――実際は、お互い頭が悪くなっていれば、お互いは助けあうことは絶対にない。察することが出来ない人間にサービスしてもしかたがないからである。人間が集団で生きなければならない以上、こんなことを指摘して「指導」する人間が最終的には必要である。むろん、この「指導」は必ずエスカレートする運命にある。