初六。童観。小人无咎。君子吝。
子供のように観る。小人であれば災難を免れ、君子であれば面倒なことになる。考えてみると、そうかもしれない。庶民が大人びてリーダーが子供っぽくなったときに一番まずいような気がする。戦争なんかのときにはまさにそうだ。
最近はじけている二つの戦争をみるに、そのそもそもの原因とされている起源的観念が虚妄であるとは言え、それとは関係なく、リーダーが子ども的であるときをついて、運命は民族の恥辱というものを生起させる。恥辱によって民族が延命するのは運命ではないのだ。滅亡もあり得るからである。
菊花賞というのがテレビでやっていたから、細と一緒にみてみたが、二人ともそもそも競馬がなんなのか全く知らない。わたくしなんかも、「みどりのマキバオー」と「ウマ娘」ではたくさんレースを観たが、きちんとレースを観るのは初めてだ。結局、スタートするまでの悠長な時間に堪えられずに、結局レースはみなかった。最近のテレビでみると、馬たちは実にいい体をしている。――つまり、わたくしは羞恥心をおぼえた。なんで実物の馬なんだよ、背中にひっついている生物誰だよ、半裸ではしらせんなよストリップかよという感想しか浮かばない。夕方やっていた競輪のほうはレースを観た。細く薄い機械に乗った生物の不安定なかんじ、非常に不安をかき立てるね。。。競馬は見ている側がパワーアップした気になる。
哲学者のなかには、競馬の哲学なんかをやっている人もいるし、文学者にも競馬を使う人や論じる人がいる。彼らは、しばしばそれを偶然性と賭けの本質に結びつける。わたくしの印象としては、ボートレースも含めて、どことなく虚実の皮膜を感じるところがこれらの競技である。たぶん、賭や偶然性は、虚構性をベースに生じる。戦争の時のように現実が賭狂っているときには、よのなかが夢心地になっていて、その中から出るのは難しい。
ときどき、一日めんぱを作り続けているのが俺の本体で、調子こいて授業でしゃべっているおれは虚構なんじゃないかと思う。先祖がそういう職人だったことを意識しているからかもしれないが、ときどき伝統とはこういう形で我々を襲うものである。卒業論文の頃、古本に囲まれてこたつでまずい茶を飲みながらしゃこしゃこ書いていた頃が、いちばんしっくりくる自分の姿で、それ以降はなにかおかしい。夢の中を漂っている気がする。たぶん、日常のなかで戦争が起こっているからである。