★さちゅりこん――渡邊史郎と縦塗横抹

世界が矛盾的自己同一的形成として、現在において過去と未来とが一となるという時、我々は反省的である。(西田幾多郎)

依存

2024-12-04 23:12:52 | 思想


 先日ある新聞にラジオだのアナウンサーだのといふ外来語を使用するのは怪しからんと論じてゐる人があつた。皇軍破竹の進撃に付随して、このやうな景気の良い議論が方々を賑はし始めてゐるけれども、尤もらしく見えて、実際は危険な行き過ぎである。
 皇軍の偉大な戦果に比べれば、まだ我々の文化は話にならぬほど貧困である。ラジオもプロペラもズルフォンアミドも日本人が発明したものではない。かやうな言葉は発明者の国籍に属するのが当然で、いはゞ文化を武器として戦ひとつた言葉である。ラジオを日本語に改めても、実力によつて戦ひとつたことにはならぬ。我々がラジオを発明すれば、当然日本語の言葉が出来上り、自然全世界が日本語で之を呼ぶであらうが、さもない限り仕方がない。我々は文化の実力によつて、かやうな言葉を今後に於て戦ひとらねばならぬのである。
 日本はジャパンでないと怒るのもをかしい。我々はブリテン国をイギリスと言ひ、フランスは之をアングレーと呼ぶけれども、軽蔑しての呼称ではない。各国には各々の国語とその尊厳とがあつて、互に之を尊重しあはねばならぬもので、こんなところに国辱を感じること自体が、国辱的な文化の貧困を意味してゐる。こんなことよりも「民族の祭典」を見て慌てゝ聖火リレーをやるやうな芸のない模倣を慎しみ、仏教国でありながら梵語辞典すら持たないやうな外国依存を取り返すのが大切である。


――坂口安吾「外来語是非」


昨日の授業で、戦後のマルクス主義陣営の生命力は、戦中期の試行錯誤――小林秀雄のいわゆる「言葉の魔術」に幻惑された状態にならずに現実に直面させられた経験のおかげである、と主張しておいた。一方の小林は、それでも言葉に限らず、時代時代の局面に対してどこかしら幻惑されたい人であって、上のようなただの正論みたいなものを吐けない。彼の言語は、常に、違う意味に転化しかかっている状態にされて提出されるからである。魔術に関わり合うことは一方で谷崎の「魔術師」の女のように、おかしな幻術をうけいれながらなお、過剰に興奮せず、自分の気持ちを保ち続けることである。そういう葛藤をさけておいて、精神の楽屋がほんとうに生き生きするかどうか?しかし、谷崎の男女は結局は共依存的であった。

要するに、小林のようなやりかた、魔術に酔うことを肯定してしまいがちなやり方は、自分が依存するものに対して弱くなる気がする。

例えば、もうあまり知られていないだけで、教育機関で「発達障害担当係」みたいにされてしまった教員が自死したり、逆に疲労で加害的な行動をとったりみたいな事件がかなり起こっていると思う。あまり見ないふりをしないほうがよい。これは、発達障害云々の問題に導かれて出てきた問題ではなく、依存されることの強要、依存することの自由が過剰にゆるされてしまった、寄生虫的状態への過激な退行である。教員が、絶望して自分を使い捨ての宿主だと思ってしまっている現状は危ない。教員と生徒や児童の権力勾配に抽象的に注目しているだけではだめで、いつ暴力的なものが発生する可能性があるのか、ある種の常識的な眼で見る必要があるのだ。

趣味や薬への依存は話題になるが、人への依存のほうが実際は大問題で、利用出来ると思った人間に依存する、ほぼ捕獲みたいな鋭さで狙いをつけて依存してくる人間はものすごく多くなっていると思う。発達障害関連でそういう事例はよく聞いていたが、そういう問題ではない。

すごく能力のある学者でも、なにか一仕事追えたときに「敵がいないな」と呟くのを多く見てきた。そしてそれは大きな勘違いだった。怖ろしいことだと思う。これは自分の業績への寄生である。

そのなかで理念を掲げて生きなければならない教育者は大変である。いまは理念への依存が堕落に見えるから、単に理念を掲げるだけではだめである。そもそも「お前の考え方を変えろ」と言っただけでは教育にはならず、そのための手段を考えるのは教師としては常識的である。すなわち、教育とは政治に似てかなり妥協の上で一歩一歩進んでいくしかないものだ。自分の一生では間に合わないほど、そのあゆみはおそいものである。だから理念は属人的であってはならないわけであるが、そんな巧くいった試しもない。理念は復興され想起されながらの生存しか許されていない。

政治においても左派が啓蒙をしたいのであればかかる事情を考える必要があるのは当然だと思う。