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あこき、翁の文を見れば、「いともいとも、いとほしく夜一夜なやみたまひけるをなむ、翁の物の悪しき心ちしはべる。あが君あが君、
老木ぞと人は見るともいかでなほ花咲き出でて君にみなれむ
なほなほ、な憎ませたまひそ」と言へり。あこき、いとあいなしと思ふ思ふ書く。「いと悩ましくせさせたまひて、御みづからは、え聞えたまはず、
枯れ果てて今は限りの老木にはいつかうれしき花は咲くべき」
と書きて、腹立ちやせむと恐ろしけれど、おぼゆるままに、取らせたれば、翁うち笑みて取りつ。
北の方のようなヤクザな奴、典薬助のような枯れて暇なやつに対して、どう立ち向かうのか。法律なんてものはこういうものには役に立たない。いまのコンプライアンスみたいなものは、逆に、人々に「法律」と「思い」だけを残して、倫理を破壊した。倫理とは、あこぎがお姫様の代わりに和歌で反抗する勇気みたいなものをいうのである。
我々は、コミュニケーション能力とかが宛も実在するかのように言っているが、その実、それは勇気の代わりに空気に漂っている霊みたいなものである。初期キリスト教徒もまた、弾圧のはげしい時代に空をみてそういう霊を観たのかも知れない。学生はソ連の歴史の話には興味なさそうなのに、映画「霊的ボルシェビキ」の話は前のめりできく。彼らもそんな世界で生きているに違いない。もう全てに「霊的」をつければよいのではないだろうか。霊的浮雲、霊的舞姫、霊的共産党宣言、霊的こころ、霊的死霊、霊的日本近代文学の起源。。。