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僕たちはサルトルと同じように神を信ずることはできない。 すでに僕たちの前には神は消え去ってしまっている。仏陀を信じてその教えの下に生きるということはできない。とすれば僕たちもサルトルと同じように、孤独と孤独が打ち合うものという風に人間を考えるところでとどまるのか。実際、コンミュニストのなかにも、まだこの人間の孤独から脱けでることが出来ていないひとがたくさんいる。僕自身もこの人間の孤独感にはげしくおそわれて、もはや処理することのできないような苦しい感じを抱かされることがあるが、この間も、二十代のコンミュニストの一人とこの問題について話し合ったとき、彼は、「如何にしようと、人間のエゴイズムはぬぐい去れない、いくらかなりとも残る。」という主張を苦しげにした。 そしてこのエゴイズムは福田恆存氏が肉体的事実と一しゅうするそこのところに根ざしているのである。僕のコミュニスムはこれをこえることのできるものでなければならない。
――野間宏「日本の最も深い場所」
野間は竹内勝太郎の「宗教論」の――、草で手足を縛られ、その草さえ傷つけること能わず死んでしまった僧のエピソードを紹介しつつ、しかし、仏教抜きにこの境地に達するにはコミュニズムしかないと言わんばかりである。この境地は、しかし、日本の「深い場所」、下部で蠢くもののイメージに支えられているようで、まあなんというか、つまりは地獄のイメージであろうか。野間はそれを戦場にで見たのである。だからそれはさしあたり「肉体」の苦痛の問題である。もうすでに精神は死んだ後だ。
藤本たつきの「チェンソーマン」は8・9巻当たりから、地獄の釜が開いたがごとき展開となる。いまの創作者にとっては、まだ地獄と現世は境界線がある。浅野いにおの「デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション」でも、地獄はまだ戦後の特撮よろしく外部からやってきた何かである。彼らは、外部と内部のレトリックを使って、最終的にはそれを混ぜてしまおうとする。そのときに、抵抗するものがあって、精神的なものであるが、しかしそれは幼児的な精神として純粋である。まだ、作者たちも含めて我々は地獄に墜ちたくはないわけだ。
労働は屡々地獄のイメージを伴う。だから「ワークライフバランス」とかがでてくるわけだが、――そんなに大事なら落合イチロー大谷あたりに言ってきてから主張しろよ、と一瞬思わないではない。が、二四時間野球のことを考えている彼らだって本当は、だからこそバランスもとれてそうである。結局、凡夫の何が足りないといえば、ワークの方である。ただし奴隷労働は除く。結局、アレントはそれを「仕事」と呼んだわけである。それは労働の阿鼻叫喚に比べて静に進行するはずだ。
阿鼻叫喚といえば、我が国においてはなぜか大人ではなく子どもが叫ぶ。ギャン泣きとか言われているほぼ病気にしか見えないものから始まって、学校でのキャキャー声に至るあれである。そういえば、それがあまりに日本語から逸脱しているように見えるからなのか、良心的な先生方は、そのエネルギーを声色を使った朗読で昇華させようというのであろうか?詩は声に出してこそだ、――みたいな主張の人は、いちど教育実習を見学して、どれだけ実際行われている朗読が地獄的に気持ち悪くなっているか確かめてきて欲しい。ちっとは公共性というものを考えてくれとしかいいようがない。下手な声優風の朗読って、作品の意味からも会話文の感情からも逸脱してるのである。つまり人間が地獄に墜ちたときの逸脱なのである。若い頃、多くの人が反発もしたかも知れない、国語教師の厳かすぎる範読って意味があったんだと思わざるをえない。